5

 発見した紅茶を、百々は一人で飲んでいた。先程は平静を装う事に成功したが、実際は東野円香の可愛らしさに打ちのめされていた。
「そう、彼にはああいう子が相応しいのよ……」
 暗い声で呟きながら、窓の外の白っぽい森を眺める。
 期待なんかしていなかった筈。初めからこういう事は覚悟していた筈。そんなつもりで彼を見ていた訳ではなかった筈。
「別に落ち込んでないわよ……」
 また独り言。しかし、体に力が入らない。
「別に強がってなんか……」
 現在渦巻くあらゆる感情が、百々には初体験だった。どうしたらいいのかまるで判らない。数学などより、余程難しい。
「○○○○○○ー○」
 その時、遠くでこもった声が聞こえた。暗黒の自分ワールドから現世に引き返し、耳を澄ます。
「○めん○だ○ーい」
 ちょっと聞き取れた。
「木綿無駄ない?」豆腐の製法を連想しながら立ち上がる。
「ごめんくださーい!」
 廊下へのドアを開けてみると、玄関の方からはっきり声が聞こえた。女性が立っているのが見える。
「あ! 瀧沢家の方ですか?」彼女もこちらに気付いて片手を挙げた。
「いえ……」
 他に誰も出てこないようなので、仕方なくカウンターの方へ進む。
「わたくし城戸実菜子(きど みなこ)といいます。こちらに中之倉さんという方が滞在されている筈なんですが……」
 城戸と名乗った女性は早口で言った。横長の眼鏡をかけていて、顔と体は縦に細長い。しかしジーンズ姿で百々よりも遥かに行動的な雰囲気である。髪は長めで茶髪だが、マメには染めていないのか所謂プリン状態だった。歳は三十くらいだろうか。
「私は来たばかりなので、何もわからないんです。えーと、執事の方に電話してみましょうか」
 これまであまり世のため人のために行動した事は少なかったが、とりあえず克山の指示通り連絡をしてみようと思った。
「あぁ助かりますぅー。お願いします」城戸は胸の前で拝むように手を合わせて腰の低いポーズを取った。
 カウンターの電話を取り、横に貼ってある表を見る。この別館の番号に対して下一桁が一つ前の数字だった。
「はい、克山です」二回のコールの後、彼の低音が応える。
「希理優です。今、城戸さんという女性が中之倉さんという方を訪ねてらっしゃったのですけれど」
「おや、そのようなご来客の予定は存じませんが……中之倉様は確かにこちらに居られます。では電話をお取り次ぎしましょう。少々お待ち下さい」
 保留のメロディーが鳴り出したので、百々は城戸を手招きした。
「本館に居て、替わって下さるそうです」
「ありがとうございます! いいですか?」そう慌ただしく言いながら彼女はカウンターに身を乗り出し、受話器を受け取る。まだ相手が出ないので、数秒間、沈黙。
「あ、中之倉さんですか?」城戸がまたせかせかと喋り出した。
『あーあ。やっぱ来ちゃったんですかぁ?』
 受話器から離れた位置にも男の声が漏れている。地声が大きいのかもしれない。
「そりゃ来ますよ。私どうしたらいいですか?」
『こっちの準備ももう終わっちゃうとこなんですよぉ。今から来てもしょうがないのはタシカですね。あと三十分くらいでそちらに戻りますから、ロビーで待ってて下さい』
「ロビー? そんなのありますか?」
『カウンターの横にあるでしょう?』
「ええー! これがぁ?」
 確かに百々から見てもそのテーブルと椅子の空間はあまりに狭く、ただの飾りにしか見えなかったが、城戸の乱暴な口調の方に驚いた。
『とりあえずそこしかないですからぁ……』反対に相手の語尾が小さくなる。こちらは気弱な人だろうか。
「はーい、わっかりましたよ!」彼女は口を尖らせてガチャリと電話を切る。そして一転、「あ、どうもありがとうございました〜」と再び腰を低くしてこちらに礼を言った。
「いえ……。」百々は無表情で応えたが、内心はポカンとしている。
「そちらは、パーティーに招待されたお客様ですか?」
「そうです。希理優百々と言います」
「ここで待てって言うんですよ〜。どう思います?」城戸は小さなロビーを見遣って腰に両手を当てた。
「よろしければ、私の部屋でお茶でも飲みますか?」
 他人を誘うなど百々には珍しい事だったが、往葵の件での暗い気分を紛らわせたい。
「ええ! いいんですか? じゃあ、お邪魔させて戴きます」

 城戸を102号室へ招き入れ、新しいカップに紅茶を注ぐ。
「あららら、本当ありがとうございます〜。貴女も名家の方ですか? それとも音楽関係者?」
「えーと、どちらでもありません」希理優家も一応名家かもしれないが、微妙な事情があったため最小限の説明に留める事にした。「亡くなった父が瀧沢邦親さんと知り合いで、私はここは初めてです。普段は数学の研究をやっています」
「へぇ〜。あたしは音響技術者の中之倉さんの助手として来たんです。表向きは……。」
 そう言って城戸は少し悪戯っぽい表情になった。
「表向き?」と首を傾げて訊き返す。
「だって遅れて来るなんておかしいでしょう? 希理優さんが瀧沢家の方々とあまり関係ないならバラしちゃおっかな」
「まあ、関係ないですけれど」
「あたし本当は雑誌記者で、ここには取材に来たんですよ。中之倉さんのコネで潜り込もうってワケ」
「なるほど」先程の腰の低さの意味が理解できた。
「黙っててくれますよね?」
「いいですよ」百々は軽く頷いた。自分の写真が雑誌に載る事はないだろうし、他に利害もなさそうである。
「オッケー。いい人ねぇ。希理優百々さん、いくつなんです?」
「三十です」
「へえ〜、なるほど。あたしは三十九」
「ええっ! すごく若く見えます」
 自分自身もよく歳が判らないと言われるが、城戸のギャップにはかなり驚いた。
「なんかよくわかんないけどみんなビックリするのよね。今更嬉しくもないけど。あたし二十歳くらいの時には『三十代でしょ?』って言われてて、要するにずっと見た目が変わってないだけなのよ」彼女は長々と一気に喋った。段々口調がフランクになる。「百々っちの研究ってどういうの?」
「も、ももっち?」質問よりも呼び名の方が気になって、思わず聞き返した。
「ア・ダ・名」城戸はこちらを指さし、ゆっくりと宣言した。変な人だ。
「え、えーと、研究? 説明が難しいんですけれど」
「堅苦しくしなくていいよ? もうダチじゃん!」
「う、うん……。」百々は同性の友人すらも少ないので、少々戸惑った。
「で、数学ってどういうの? 計算の方法なんて出尽くしてると思ってたけど」彼女は先を促す。
「それはいくらでもあるのよ。テーマを見つけるのは確かに大変だけど……私のはちょっと変わってて、数学と哲学のハイブリッドというか……一言で説明するのは無理かも」
「うん、あたしも訊いてはみたものの、理解するのは無理かも」城戸は屈託なく笑った。

    6

 往葵は、円香とお菓子を食べながら会話を続けていた。
 実際にこの館へ到着してみると想像していた以上に不思議な雰囲気で、何か特別な事件が起こりそうな予感がする。そして瀧沢邦親氏の暮らしぶりやこの後のセレモニーも興味深い。その辺りの事をいくつか質問してみている。
 普段あまり人の顔を直視して話をしない自分だが、何度か円香の表情を窺ってみても彼女はあらゆる瞬間、満面の笑みだった。このシチュエーションが余程嬉しいらしい。ソファに座り、たまに脚をパタパタと動かしている。
(うわぁ、すっごい笑顔になってるなあ……)冷静に観察して、ちょっと引いてしまった。
 実は往葵はパーティーへの誘いをけっこう軽い気持ちでOKしたのだったが、この様子を見るに、やはりそういう事なのだろうか。ちょっと後で困るかもしれない。
 そんな事を考えていると、ドットトと妙なリズムでドアがノックされた。
「円香ぁ」男性の声が聞こえる。
「はぁい」
 彼女は返事をしてトットトと妙なリズムで走り寄り、廊下へのドアを開けた。
「お友達、着いたのかい?」
「うん。お話してたの」
 そこに立っていたのは背の低い四十代くらいの男性だった。白いスーツ姿で、ポケットに両手を突っ込んでいる。
「往葵君、これがあたしのパパです」円香が振り返って紹介した。
「あっ、今日はお招き戴いて……」往葵は慌てて立ち上がり頭を下げる。
「どうも、東野多賀史(たかし)です。娘をよろしくお願いしますよ」
 円香の父親は数歩部屋の中に入ってきて右手を差し出した。往葵も歩み寄り、とりあえず握手する。
「杜能塚往葵です。ええっと……」
 『娘さんは幸せにしますので』などと返答する訳にもいかない。すると他に何も言いようがない。そのまま言葉が途切れてしまいそうになる。
「ええ、本当に、お招き戴いてありがとうございます。お邪魔します」さっきの続きなどを言ってよくわからない感じで締めた。どうも口下手というか、人生経験不足だ。
「ま、ごゆっくり」
 多賀史氏は目を大きくしながら頭を傾け、ニッコリとした。身長は往葵より低かったが、貫録はけっこうある。よく考えてみると、白スーツが似合う人間になるのは難しい事かもしれない。
「さ、後はジャマしないでよぉ」
 円香は父を廊下の外に押し出し始める。
「時間には遅れるなよぉ」という声が段々離れて行きながら聞こえ、ドアが閉まる音と共に掻き消えた。
「……似てますね、お父さん」
「背ぇ低いのがでしょ? 迷惑な遺伝なのよ」彼女は拗ねたように両腕を後ろに振った。
「いやいや、笑顔の感じとかも結構似てるし」往葵はフォローする。やや間延びしたような喋り方も似ているが、それは言わないでおいた。
「そぉかな、自分ではよくわかんない」
「お仕事は何を?」
「証券会社。よく外国行ってる」
 なんだか高収入っぽい。あの貫録はその辺からも来ているのか。
「あの人は瀧沢さんの息子ではないんでしたっけ?」
「うん。死んだママの方が旧姓瀧沢なわけ」
「203に居る方々は……」
「伯父さんが瀧沢駿って言って、ママのお兄さん。その奥さんが瀧沢慶子さん。子供はいないみたい」
「ふうん」頭の中で、瀧沢邦親を頂点とする家系図を描いてみた。
「さ、もっとお話しましょ」彼女は腕を掴んで引っ張ろうとする。
「うーんと、着替えとかしなくていいの?」
 往葵は百々を一人で部屋に置いてきたのが気になり始めていた。
「パーティーではドレス着るんだけど、まだ時間はあるよぉ」
「うーん、そっか」
 ヤシの実のように流されて、再びソファへ座ってしまった。

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