第四章

    1

 幸い『籠瀧館』にそれ以上の事件は降りかからないまま、朝はやってきた。

 ただ、日の出を迎えて森の見通しは良くなったものの、非常に気温が低かった。おそらく零下まで下がっていて、とても長くは外にいられない。都合悪くもマイクロバスで悠々とやってきたせいで、皆防寒着を持っていなかった。仕方なく、もう少し陽が昇るまで待つ事になる。
 当初は当然、全員で山を下りようという話だった。しかし困った事に、邦親氏が頑として地下室を出ようとしない。克山が階段室のカギも持ったまま消えたため、一人で置いてゆくわけにはいかなかった。
 結局、東野氏・往葵・城戸の三人が下山チームに決定。時任も行きたがったが、なんだかんだと理由をつけて皆が止めた。結局のところは「大物過ぎる」からである。彼女に万一の事があっては音楽界の大きな損失だ。あとは円香もついて来たがったが、勿論宥め賺した。
 あまり館の状態を荒らしたくなかったものの、仕方なく克山と梁木原のクローゼットから失敬したコートを羽織って出発する。
 森にはまだモヤが残り、大気が白い。道路に雪は積もっていなかったが、アスファルトは空気中の水分が凝結して真っ黒に凍り付いていた。思ったほどは滑らなかったので、その中央を三人はてくてくと歩く。
「百々っち置いてくるのは、ちょっと心配だけどねー」城戸はやはり梁木原のコートが似合わない。
「大丈夫ですよ。楢崎さんのケガも軽そうですし、何かあっても戦ってくれるでしょう」往葵が応える。こちらも克山のコートは丈が長過ぎだった。
「中之倉さんの方は頼りないもんねぇ。もし何かあったらシメてやる」
 彼女はそう言ったが、実際そうなったらシメるどころでは済まないだろう、と心の中で突っ込む。
「夜中に何も起こらなかったんだから、大丈夫さ」東野氏もやっぱり、コートの裾が地面についていた。
「うん、だいたい状況もわかったし。ゆっきょんのおかげで」
「ゆ、ゆっきょん?」
「キミのア・ダ・名」城戸はこちらを指さした。変な人だ。
「ああ、色々と推理をしてくれたね。二人も人が殺されたのにあれだけ冷静に振る舞えるのは、大したものだよ」東野氏も往葵を褒めた。
 しかし、と自問する。自分は何事かにおいて優秀なのか? 精神が強靱なのか? ……とてもそうとは思えなかった。

 普段そんなに大胆な行動はしない。面倒が起こりそうな状況は避ける。気は弱いと思う。
 むしろ、何かが欠落している感覚があった。死というものへの恐怖だろうか。本来、身を守るために危険から遠ざかろうとする防衛本能が、生物には備わっているはず。――それが機能していない?
 父が死んだ時、往葵は六歳だった。物心つくかつかないか、という時期である。ほとんどその頃の記憶はない。
 しかしもしかして、自分は父の最期の姿を目にしているのではないか。詳しい状況は聞いていないが、あの日家の中を歩き廻っていて、書斎を覗き込んだのではないか……。
 『死』がこの心の奥底に居座り、解決されないまま横たわっている。それが特異な死への興味となり、推理へと駆り立てているのではないか……。
 そうだとしたら、それを克服するには、どうしたらいい?

 三人に会話もなくなり、往葵が沈み込むように考え事をしながら歩いているうち、いつの間にか三十分も経っていたらしい。目の前に細長い別館が姿を現した。
「さてと、ここが荒らされていなければいいんだが」東野氏が門の閂を外し、鉄柵を押し開く。
 キーがついたままだという中之倉の白いワゴンは、まだそこにあった。駆け寄ってタイヤを見ても異常はない。楢崎のジープも同様。
「ああ……、最悪の状況ではなかったようですね」往葵は安堵の声を洩らした。
「これなら電話も大丈夫なんじゃないか?」
「でも、気をつけて下さいね」
 男性陣の背中へ城戸が声を掛ける。最後の警戒点は、中に克山が隠れている事だ。
 ここは当然執事が施錠して出てきたが、運良く東野氏もカギを持っていた。夏場避暑へ来た時に使うため、ずっと財布に入れてあったのである。
 ガラスの扉を開け、玄関に入る。空気が静かだ。直感的に、全く異常がないと感じられた。
 カウンター付近では特に気をつけて行動したが、誰か飛び出してくる事もない。東野氏が電話に辿り着き、受話器を取った。110.
「……よし! 呼び出してるぞ」彼の表情が明るくなる。「もしもし? H町の瀧沢です。そう、山の上の。それでですね、昨夜、人が二人殺されたんです。犯人は逃げたと思われます。ええ、そうです、すぐ来て下さい。こちらは十人くらいで、疲れ果てています。ええ。お願いします」
 電話を終え、東野氏はフーッと長い溜息をついた。
「良かった」城戸もほっとしたように言う。
「では、どうします? 車で上へ戻りましょうか」往葵が訊いた。
「む、そうだな、細かい説明をし忘れた。でもまあ、行くか。みんな不安だろう」
「ええ、ここにいなければ警察も勝手に上ってくるでしょう!」城戸も大雑把な事を言う。
 楢崎の車のキーも借りてきていたので、快適そうなそちらを選択した。エンジンを唸らせて山を上ってみれば、五分ほどで到着してしまう。
「車って便利だなあ……」
 城戸が当たり前の事をしみじみと呟いたので、往葵はつい笑いそうになるのを慌てて堪えた。

    2

 昨晩は全員が警戒の為に緊張していたが、朝を迎えると明らかに、ほっとした雰囲気が広がった。
 理系の百々からしてみれば、暗いか明るいか、寒いか暖かいか――ただそれだけの違いで、本質的な状況に全く変化はないではないか、と思う。
 現代に浸透している進化論に拠るならば、まだ人間が人間の形をしていない獣の時代、夜には天敵に襲われる危険があった。それが今でも遺伝子に刻み込まれているから、闇が恐ろしい。そんな理屈だろう。
 しかし突飛なところでは、全く逆の退化論というものもある。もっと高度な文明を持った生命が地球に降り立ち、その記憶を失ったのが人類だ――という説が、百々は個人的に好きだった。
 何故なら動物と人間にはあまりにも大きな隔たりがある。生存するために無駄な行為、そう、例えば数学の研究なんて、絶対に人間しかやらない。
 それなら闇が恐ろしいのは、宇宙を遠く旅しても星へ降り立つ事ができず、何もない空間へと放り出されてしまう恐怖だろうか。百々には、そちらの方がわかる気がするのだ。

 とりとめのない事を考えていたが、下山チームは予想される最短時間である四十分ほどで戻って来た。チャイムが鳴り、全員が玄関へ出迎える。
「お帰りなさい! 早かったね」円香が弾んだ声を出した。
「ああ、別館は電話も車も無事だったんだ。すぐに警察が来るよ」東野氏も笑顔になっている。
「ヒィヤァ〜。助かったァ〜。」中之倉は甲高い声でそう言って、壁際に座り込んでしまった。丸い顎に無精髭が伸びている。
「私達が出てきたままだったのね?」
 百々は往葵に訊いた。
「はい。まるっきり」
「やっぱりそうなのね……」これで、『項』を一つ消す事ができる。
「えっ、やっぱりって? 意外じゃないんですか?」
 彼は髪を揺らして首を傾げた。

 十五分ほどして、まずはパトカーが三台やってきた。狭いスペースへ停めにくそうに駐車している。
 先頭に立ってやってきた紺色の制服の警察官は、四十代から五十代くらいの大柄な男だった。真面目そうな眼鏡をかけている他、額が大分後退しているのが特徴である。
「お電話は下の建物からでスたでしょう? 誰も居られないので、担がれたかと思いまスたよ」
「すみません、説明不足でした」東野氏が進み出て謝る。「みんながここで不安にして待っていたもので」
「まあいいでサ。人が殺されたというのは本当ダすか? おっと申ス遅れまスた、私はH町警察署の木村と言います。一応警部になっておルます」
 彼は丁寧な標準語を喋っているつもりのようだったが、節々に若干訛りを隠し切れていない。根っからの地元の人間だろうと百々には思えた。階級に一応も何もないのではないか、とちょっと可笑しい。
「ええ、まずは確認して下さい」と東野が先導し、皆は身をよけて警官達を通す。
 瀧沢駿が倒れているプレゼントルームを覗くと、木村警部は強く顔をしかめた。他の若い警官達は声こそ上げなかったものの、明らかに脅えて後退りしてしまった。
「なぁるほど……こンりゃ酷い。この村、いや今は町ですがね、この辺で人が殺される事件なんて、私が勤めるようになってから一度も無かったですよ。県警からの応援に任せるスかないですな」
「とりあえず警護して戴けますか。犯人と思われる者が逃走したままですので」東野氏が両腕を広げながら言う。
「勿論承知スております」木村は彼に応えると、若者に指示を飛ばす。「おい、お前とお前は玄関の前に残ってるように。あンどはできるだけ応援を呼んでケれ」
 皆はホールに留まり、東野氏と往葵が警部に状況を説明しながら奥へと向かった。
「これで一安心ね」城戸は百々の隣に座る。
「そうね」さすがに安全が確実になると一気に睡魔が襲ってきて、片手で両目を押さえた。「部屋に戻って少し眠りたいわ……」
「でも、何かワナが仕掛けてあったりして」
「問題ないわよ。電話線も無事だったんだし」
「あ、そうよね」
 木村が一通り館を見てホールへ戻ってくると、早速城戸が進言する。
「あの、私達とっても疲れているんです。別館の部屋で一旦休ませてもらえませんか」
「ええ、なるべくそのようにしますが、もう少ス待って下さい」彼は難しい顔をしていた。「ところでどなたか、瀧沢邦親さんに地下室がら出て貰えるように説得できる方はいませんか?」
「無理です。さっきも散々お願いしましたのに、まるで取り合ってくれなかったんですのよ」慶子夫人が疲れた声で応える。
「困った方ですなあ。どっちにスてもあの部屋だって調べなきゃいかんというのに」
 それからしばらくは、ただの待ち時間となった。今やってきた地元の警官達ではあまりにも人手が足りないのである。木村もまだ、しつこく状況を尋ねる事はしなかった。
 だが警察の第二陣はすごい量で、一挙に騒がしくなった。
 山を登ってくる道の片側にパトカーやワゴンがずらりと並び、籠瀧館の面々はそれらの中で一通りの事情聴取を受けた。それによって更に疲弊させられたものの、城戸の進言が聞き入れられたようで、やっと元々の部屋へ戻る事ができた。
 別館は簡単に警官達による捜査が行われていたが、やはり異常はいっさい無いとの事。それならむしろ、関係者を足止めするには絶好の宿舎でもあったのだろう。
 百々はもちろん城戸を102号室へ受け入れ、とにかく眠かったのですぐベッドへ倒れ込んだ。

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