5

 何とか三十分で気持ちを鎮め、百々は202号室で行われる事情聴取へと向かった。
「A県警の麻績(おみ)といいます。よろしく」
 ソファで対面した男は、眼鏡のフレームが風変わりである事を除けば一見さっぱりした風貌である。だが、言うなれば纏うオーラが物凄かった。具体的な特徴などはなく、体格はむしろ小柄ですらあるのに、何か目に見えない威圧感を感じるのだ。
「ところで、聴取の前に……この表記で希理優とは、珍しい名字ですね?」
「ええ、まあ、ちょっと他にはないでしょうね」
「もしかして、希理優ヒデカズ君とはご親戚ですか」
 君付け、という事は……「若い子ですか?」
「え? そう、二十三歳だったかな。ああ、という事は、あと二人いるんですかね」
 一瞬考えただけで、麻績はさらりと言った。百々は驚く。やはりこの男は只者ではない。
「その通りです。一と書く秀一(ひでかず)が父で、千と書く秀千(ひでかず)が甥になります」
「成程」彼は数字の法則から更に『秀十(ひでと)』の存在に気付いた筈なのに、それにわざわざ触れる事はしなかった。「いえね、今年の六月だったかな、S市の貸しスタジオで殺人事件があったのをご存知ですか」
「いいえ、新聞も読まないもので……その事件が何か?」百々は首を傾げる。
「少々不可解な状況だったんですけれどね、秀千君がそれを解決したんですよ」
「まあ、彼が」
「会う機会などはあるんですか?」
「全く。もう数年になるでしょうか」
「そうでしたか、失礼」
「いえ……。」
 希理優家の事情により、百々は親戚と殆ど接触がない。兄達はともかく、昔の経緯と関連のない秀千に対して特に悪い心情は持っていないが、なんとなく未だに敬遠していた。歳はそれほど離れていないし、ほとぼりが冷めたら仲良くする時も来るだろうか。
「実は、質問する前からもしかしたらと思っていました。何しろ瞳がそっくりなんです」
「そうなのですか?」
 邦親氏が父と百々について言ったのと同じ表現を、今度は麻績が百々と秀千について使った。一族が全員同じ目元だったりしたら少々恐い。
「彼は、素晴らしい知性の持ち主です。あなたも数学の研究者だそうですね。もしかして、この事件について意見などはありませんか」
 まだ事情聴取も始めず、彼はそんな事を言い出した。後ろで手帳を構えていた長身の刑事も不思議そうにこちらを見る。しかし、麻績の表情は真剣そのものだった。
(実は――あります)
 百々は、心の中で呟いた。だがもちろん、捜査が本職の人間に対していきなり偉そうな事は言えない。
「いえ……とりあえず時間を追って……」
「そうですね。まずは型通りに聴取を行いましょうか。すまんね、阿由川君」彼は振り返って若い刑事に詫びた。
 そしてしばらくは、昨日館に着いた時点から見聞きした事柄について、様々な質問がされた。朝の聴取よりも数段詳細に答えなければならない。
「それで、克山氏が逃走した、と……こんなところですか」
 麻績がそう締めて、時間軸に沿っての説明が終わった。
「そうですね」表面上は、と付け足しそうになったが堪える。
「さて、希理優さんはこの事件についてどう思われます?」
 彼はさりげなく付け加えたが、まだ百々の持つ考えに期待しているのだろうか。
「――裏側の事情があるのではないか、と思います」
「裏の事情ですか。それは動機などについて?」
「いいえ、そうではなく、事件の構造そのものが、表から見える姿とは違っていると考えます」麻績の雰囲気に引き込まれ、つい大胆な事を言ってしまった。
「と言いますのは? まさか克山が犯人ではないと?」
「少なくとも、彼が殺人を犯したのは間違いないと思いますけれど」百々は慎重な姿勢を取り戻し、考えの一部だけを述べる。「微妙な問題があります」
「教えてはもらえないんですか?」警部は顔の角度を変え、不敵に微笑した。
「あまり軽はずみには……。」
 ここで踏み止まったのは、邦親氏から貰ったレコードが本当に嬉しかったからである。彼が事件にどれほど関与しているのかが、まだ判断できていない。
 百々がある助言をすれば、捜査は格段に進展するだろう。しかしそれは、邦親氏に疑いがかかる事が避けられない状況を生むのだ。もしも彼が全く無実ならば、不当な迷惑を掛ける事になる。ただ……そうである可能性はいかばかりか。
「まだ考えがまとまりきっていないのです。私から、少々質問してはいけないでしょうか?」
「うーん、ある程度の範囲までなら。貴女には期待していますから」
 秀千がどんな素晴らしい活躍をしたか知らないが、彼の親族だからといってそんなに優遇するのは不思議である。とりあえず、訊いていいのなら訊いておこう。
「瀧沢駿氏の指紋が、梁木原さんの周辺から出ましたか?」
 ずっと余裕を見せていた麻績の表情が変わった。
「何故それを」目を見開いている。
「私の考えの道筋では、そうなります」
「何かの兆候を目撃したのではなくて?」
「目にしたものはもう全てお話ししました。その後に、考え至った事です。やはりありませんでしたか?」
「ええ……」彼は一度眼鏡を持ち上げて呼吸を落ち着けた。「ついさっき現場で報告を聞いて来たんですがね、鑑識の奴らは現状を機械的に記録するばかりで、その不自然さに全く気付いていませんでしたよ」
「でも、そういう事も無いとは言えませんし」
「いや、もっと徹底して、瀧沢駿の動いた足取り自体が残っていないんです。本館の中にはほんの僅かしか指紋が無い。毛髪も落ちていない。梁木原の衣服にも痕跡が無い。これは絶対におかしい!」
「なるほど……ありがとうございました」
 勢いを増す彼の語調とは正反対に、百々はおっとりと応える。そして座ったまま、深々と一礼した。
「これがどういう事かは教えていただけないんですか?」麻績は一瞬呆気に取られ、肩を下げてから苦笑する。
「すみません、もうしばらく考えさせて下さい」
「それなら是非、全てを解き明かして貰いたいですね。僕も手を抜く訳ではありませんが、特殊な才覚が必要かもしれない」彼は膝を掴んで立ち上がり、誰もいない方向を睨んだ。「どうもあの瀧沢邦親氏といい、奇妙な雰囲気があります。事件全体に霧がかかっているような……。昨夜は実際にかかっていたそうですが」

    6

 麻績を筆頭とした捜査陣の得られた情報、及び辿り着いた見解は以下である。
 プレゼントルームで発見された遺体は、歯科治療跡により間違いなく瀧沢駿氏であると確認された。死因は出血多量。睡眠薬が検出され、眠り込んだ状態で顔面に夥しい損傷が加えられたと見られる。使用された凶器は鋭利な刃物だが、周囲からは発見されていない。
 損傷のうち特徴的なのは、眼球が二つともえぐり取られている点だった。死亡推定時刻を割り出すにあたって眼球は非常に重要な存在で、検視を妨げる意図で行ったのかもしれない。
 また、顔面に損傷が加えられた時点での即死ではなく、出血開始から死亡まで数十分かかった可能性もある。犯行時刻は更に幅を持たせて考えなければならない。
 発見時、杜能塚往葵だけが死体に触れているが、その際死後硬直は感じられなかったという。夜を越す間に何度か確認していれば参考になっただろうが、当然一般人にそんな期待はできない。
 検視の上で出た結論は、死亡推定時刻が六時半を中心として前後三時間。出血開始が最も早い場合、更に三十分さかのぼって四時半。
 勿論他の証言によって、犯行時刻はそこから絞ってゆく事ができる。
 最初に招待客がプレゼントを受け取った時刻は六時五十分ごろ。そして直後に全員が部屋を出て、メイドの梁木原珠子以外の者は地下室へ。その地下室から皆が上がってきたのは七時二十分ごろである。
 パーティーに入ると、克山と梁木原はキッチンとホールを往復する。客の中にトイレに立った者が数名おり、そちらはプレゼントルームの前を通るのだが、その時点では手紙も貼られておらず、全く異常は感じられなかったという。
 停電が起こったのは七時三十五分から四十分ごろ。すぐにブレーカーを上げて復旧したが、ここでドアに貼られた手紙に気付き、続いて死体が発見された。
 これらの事から、犯行時刻の幅は六時五十分から七時三十五分となる。ただ、プレゼントの受け渡しが行われる前に犯行を済ませ、後から移動を行った可能性は僅かにある。死後硬直から移動の痕跡は発見されなかったが、即死でなかった場合はそんなケースが無いとも言い切れない。よって、顔面に損傷を加えた時刻は最も早い場合、六時二十分と考えておくべきであろう。
 また、地下室から一同が上がってきた七時二十分以降は事実上プレゼントルームを開ける事ができなかったため、遅い方の時刻はもう少し絞る事ができる。
 克山はその時間帯、ほとんど招待客と共に行動していた。瀧沢邦親も地下で顔を合わせている。瀧沢駿を殺害できたのは梁木原だけだった。しかし彼女は、克山によって殺害された。
 梁木原はパーティーの当初姿を確認されているので、殺害されたタイミングは停電の直前しかあり得ない。
 停電の原因だが、克山の居室からある機械が見つかった。コンセントに接続されていて、露出したままの基盤にいくつか電子部品がハンダ付けしてあるものだ。回路を調べたところ、タイマーで設定した時間に高い負荷を発生させ、確実にブレーカーを落とす事ができるものだった。要するに、完全に狙い通りの停電だったわけである。詳しい者によると、克山自ら組んだにしてもオーダーメイドにしても入手経路はいくらでもあり、用意した時期等を特に絞り込める情報は得られないとの事だった。
 ともかく瀧沢駿殺害について克山は手を下していないにしろ、確実に把握はしていた。停電に乗じて梁木原がホールを走り抜けたと見せ掛け、実際は彼がプレゼントルームに手紙を貼り付けたからである。
 もし楢崎が彼女の部屋を調べようと言い出さなければ梁木原の単独犯・失踪という形になり、克山の方は罪を逃れられるように計算していたのだ。
 地下の瀧沢邦親氏もA県警が到着した時点で警察を受け入れ、事情聴取と部屋の捜査が行われたが、怪しい点は見当たらなかった。

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