第一章

    1

 希理優百々(きりゅう もも)はいつも、荷物を両腕で抱き締めるようにして持つ。そうすればこの殺伐とした世界の中で、ほんの僅かな安心――という錯覚――は得られるからだ。眠りにつくときには、クマの縫いぐるみが必需品。
 現在三十歳の彼女は『アマチュア数学者』である。大学院の博士課程にまで進んだのだが、その頃から長い黒髪に銀縁の眼鏡、それにバインダーを抱き締めているといった根暗だった。優秀とされながらも結局、修了後は自宅に籠もりっきりで研究を行っている。そんなフリーの立場だが、伝手によって論文を世に問う事は可能で、最近では国際的にもそれなりの評価を得られるようになりつつあった。
 さて、今日の荷物はボストンバッグである。いつものように抱き締めて出掛けようとすると、マンションを出てすぐの電柱に激突した。
「視界が悪過ぎたわ……」
 斜めに倒れ込んだアスファルトの上で、そう独り言を呟いた。気付くのが遅い。
 仕方ないので部屋に戻って別の小さなカバンへ財布などを分け、右腕でそれをしっかりと胸に抱いて左肩にボストンバッグを担ぐ、という方式にした。ちょっと安心感が物足りない。
 百々はしばらく斜め下を向いて舗道を歩いていたが、信号待ちでふと周りを見回して初めて、道路を行く車の多さに驚いた。買い物は空いている平日に、という方針の彼女は、クリスマスイブなどという賑やかな日に外出した経験はほとんど無かったのだ。
 余裕を持って出たので、待ち合わせ場所には十五分前に着いた(電柱事件がなければ三十分前に着いただろう)。ここは駅の隣にある市営の多目的ビルで、一階ホールにゆっくりできるソファーがある。ただ今日は様子が違っていた。中央部分にパネルが立てられ、何やら絵画の展示会をやっていたのである。
 ソファーを探すと壁際まで寄せられていて、少々座りにくい雰囲気。無料だったので展示を見ながら待つ事にした。
 三人ほどの画家の作品が集められているようだが、徒篠玄幽と小さなパネルで紹介されている物の前で立ち止まった。普段特に絵画への興味はないが、なんとなく凄みを感じる。
「百々さん!」
 そのまま茫洋と眺めていると待ち合わせの相手、杜能塚往葵(とのつか ゆき)の声がした。
「こんにちは。今日は人が多いわね……」
 歩み寄ってきた彼に向かって、百々は無表情のまま首を横に傾けて言う。勿論人込みは苦手な彼女である。
「イブなので仕方ないですよ」往葵はニコニコとしていた。リュックを背負い、両手を肩紐に添えている。
 彼は十六歳、高校一年。大掛かりな荷物を持って二人で何処へ行くのかというと、山奥にある瀧沢家の館。泊まりである。
「あ、今日の服、素敵ですね」
 静かに旅の道程に思いを馳せようとした時、突然服を褒められた。
「えっ? そ、そうかしら……ありがとう」
 百々は今夜行われるパーティーのために、真っ黒で長さが足下まであるワンピースを着ていた。意味もなく腹の辺りを見たりしながら吃り気味に応える。
 二人の関係は少々微妙だった。簡単に説明してしまえば、百々の数学の師匠である故・杜能塚雅征(まさゆき)博士の息子が彼、往葵である。それだけならせいぜい『親戚の男の子』程度の距離感で、旅行に向かおうとしているのを端から見れば『保護者』でしかないだろう。だが、もう少々、微妙なのである。
 希理優の名を持った、百々の父親にあたる男。彼は事情によって新たな家庭を作る事ができず、娘は母親のみに育てさせるしかなかった。その罪滅ぼしなのか、父は幼少時より理系の才能を見せていた百々を数学者の杜能塚氏に紹介し、面倒も見て貰えるよう計らった。それがもう十七年も前になるから、往葵の事は生まれた時から知っている。
 百々は学生時代からひたすら数学に打ち込み続け、男性と何らかの関係を持つ事など皆無だった。というか、何にも打ち込まなくても生まれつき皆無だったろうというような性格である。見た目を飾る事にも興味はない。
 ところが意外な事が起こった。年頃になった往葵が、どうやらこちらを女性として見ているようなのだ。
 彼は全く、異性に対して軽口を叩くようなタイプではない。雅征博士と同じく頭脳明晰で物静かな男である。そして高校は男子校であるわけでもないから若い女子が周りに沢山いる筈だし、母親は健在なので(しかも異様に美人だ)そういう憧れでもないだろう、と分析できる。
 それが最近では顔を合わせる度、本気で眩しそうな表情をしながら「百々さんって綺麗ですね」などと言うのである。勿論こちらとしては頭が良く顔も可愛い往葵の事が嫌いな筈はなく、正直言って『天使か?』と思う。しかし、どう考えてもおかしい。歳の差はほぼ倍、しかも勉強だけが取り柄の根暗女の何処が良いというのか。このまま突き進んでも、彼にとって幸せだとは到底思えないのだ。
 戸惑いながらも、ここのところはちょくちょく会っていた。百々は数学以外の唯一の趣味としてエレキベースを弾くのだが、往葵の方はドラムに興味を持ち、貸しスタジオに入って一緒に練習するようになったのだ。これはデートと呼ぶのか、やっぱり違うのか、などと毎回悩んでいたりする。
「駅は多分もっと凄いですよ」
 並んで歩き出しながら往葵が言った。
「憂鬱ね……」そう応えたが、よく考えると自分は常に憂鬱な状態だろうか。
 徒篠とか言う画家の作品が良かったので、百々はビル出口にあった展示会のパンフレットをスッと手に取りバッグへ仕舞った。だがその動作が滑らか過ぎて、隣の往葵は気付かなかったようだ。もちろん無料の物だが、まるで万引きのようで、やっぱり自分の暗さを再確認する。
 駅へ入ると予想以上の人込み、人いきれだった。
「うわぁ。こんなに混んでて乗れるんですか?」往葵が子供らしい発言をした。でも、わざとかもしれない。
「指定席だから大丈夫よ」
 実のところこの日の切符を取るのには少々苦労したのだが、絶対に言うまいと思うこの気持ちは何だろうか。
 S駅の連絡通路ではいつも路上ミュージシャンが並び、各々アコースティックギターをかき鳴らしながら声を上げている。それを時折立ち止まって眺めながら、目的のホームへ進んでいった。
「窓際取る?」やっと車両内の隅の席まで辿り着き、振り向いて往葵に訊く。
「いえ、百々さんも好きでしょう? どうぞ」
 軽く背中を押された。正直言って、気持ち良い。色んな意味で……。

    2

 その頃、東野円香(ひがしの まどか)は頬を膨らませていた。
 彼女の母方の祖父は六十年代から七十年代に活躍したミュージシャン、瀧沢邦親(たきざわ くにちか)である。彼は引退すると、A県の山奥に館を構えて静かに暮らすようになった。そして普段は全く人を寄せ付けないのだが、毎年クリスマスだけは親戚や親交の厚いミュージシャンを招待してパーティーを開催している。
 円香は今年高校に入学して杜能塚往葵と同じクラスになった。彼は普段は非常に物静かで、あまり笑顔も見られない。なんとなく明らかに、他の男子とは雰囲気が違う。真面目というのとも違い、授業中はなんだかぼんやりとしていたり、数学の時間なのに小説を読んでいたりしていた。それでも定期テストの上位者が貼り出されると、その一番上に彼の名前があったのである。まるでミステリアス。
 女子連中の間でもとにかく不思議な人だ、という見解で一致していたが、誰も本気で興味を持つ子はいなかった。会話の仕方が不明だと先に進まない。円香も最初は近寄り難かった。
 ところが体育でバスケットボールの授業になった時、往葵から目が離せなくなった。部活にも所属していない彼は体格こそあまり良くないのだが、男子数十人の中で一人だけ『NBAっぽい』動きをしていたのである。
 何を隠そう円香はバスケット大好き。女子バス部に所属し、家ではCSの有料チャンネルまで加入してNBAの試合を観まくっている。残念ながら身長は平均より更にちっちゃいが、ポイントガードとしてプロを目指せないかと思っている。
 往葵の動きはバネが活きていた。ミドルシュートは垂直にジャンプして頂点で離す。レイアップでは空中に浮いている時間が長く、時にダブルクラッチまで行う。男子バスケ部員ですらあまりNBAも参考にせず、もっと真面目すぎるフォームでしかプレイできないというのに。
 そして彼はフリースローの時片頬を触った。「ホーナセックの真似だ!」と円香は気付いたが、周りの男子は全然反応しない。ジェイソンキッドの物真似ならもう少し解る者がいたかもしれないが、投げキッスは高校でやるには恥ずかしいか。
 それで昼休みに思い切って話し掛けてみたのである。
「あのっ、杜能塚君」
「はい、何か?」
 彼は不思議そうにこちらを見た。それにしても『はい』で応える高校生なんて存在したのか。
「もしかして、もしかしてなんだけど……NBAとか好き?」
「ああ、そうなんです。体育見て判った?」往葵は微笑んだ。
(うわっ、笑顔になると可愛いじゃん!)円香は心の中でびっくりした。
「うん、ほら! フリースローとか」二つの握り拳を胸の脇でブンブンと振りながら言う。
「あれ解った人いたんだ〜。誰も突っ込んでくれなくて、古すぎたかと思ってました」
 そこから話が弾み、最新のスターであるレブロン・ジェームスなどについて盛り上がった。同い歳なのに半分丁寧語が混じるのが不思議ではあるが、全然話しにくい人ではなかった。きっかけさえあればよかったのだ。
 円香は首尾よく友人の座を獲得し、たまに学校で会話ができるようになった。それで判明してきたのは、バスケットなら同じ目線で会話が進められるものの、他の点では本当に彼は賢いという事だった。
 自分も勉強はコツコツ努力型で学年二十位くらいにつけていたが、往葵は軽々とその上を行く。たまに図書室で数学などを教えてもらったりすると、説明が非常に解り易かった。それはつまり、根本的に理解のレベルが深い事の表れである。円香は彼を尊敬した。
 そして数ヶ月が経ち毎年恒例のクリスマスパーティーがやってくるに当たって、関係進展を目指し往葵を招待したのである。
 ボーイフレンドだと言い張り、祖父を始めとする親族の諒解はなんとか得られた。そして当人は意外な事にあっさりとOKした。しかも他の客同様、一泊してもいいと言う。これはあちらサイドも『その気』なのかと喜んだ。
 ところが、その決定から一週間ほどして、急に彼にもう一人付いてくる事になったのである。
 希理優百々とかいうその女は三十歳らしい。まさか恋人ではないだろうが、さっぱり関係が判らない。でもどうも、警戒すべき気がする。
 彼女は往葵からパーティーの話を聞き、自分も参加させてもらえないかと申し出た。わざわざ館に直接電話もかけてきたという。するとなんと、祖父は即座に許可した。
 何故かと訊くと、百々の亡くなった父親が生前祖父と知り合いで、ミュージシャン時代物凄く世話になったらしいのだ。断るなんてとんでもない、という調子だった。
 しかしそんなのは知った事ではない。往葵との二人のクリスマスのはずが、邪魔者が加わってしまった。
 そもそも市内からの移動も彼と一緒が良かったのに、不本意にもあっさり父親の車に乗せられ、先に館へ到着してしまった。子供は移動に自由が利かないのだ。往葵はというと、その三十女と電車で来るらしい。それがしたかったのに!
 そんな経緯で、円香は頬を膨らませていた。

 
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