5

 百々は玄関に飾ってあった絵が、ほんの僅かに記憶にある気がした。しかし思い出せずに首を傾げたのだ。昼間の展示会で見た物ならば、もっとはっきり憶えている筈。それよりも、ほんの一瞬だけ目にしたような……。
 克山に促されたのでとりあえず絵の事は忘れ、今開けられた部屋へ入った。するとまず、プレゼントの数が十ある事に驚いた。瀧沢駿を加えた人数と同じである。つまり、飛び入りの城戸の分まで短時間で用意されたのだ。
「宛名がありますので、確認の上お受け取り下さい。ここで開封して戴いて構いません」克山が入口の近くでアナウンスする。
 百々は瀧沢一族やミュージシャンが品を受けとるのを待ってから、赤い敷物へ近付いた。『希理優百々殿』というカードがついた紙袋と、やはり『城戸実菜子殿』宛も存在した。こちらはかなり小さな箱である。
「ほら、城戸さんのもあったわよ」彼女は壁際に下がっていたので、持っていって手渡してやった。
「ええっ、嘘? いつの間に……」
「親切なものね」
 そんな言葉を交わしながら二人で包みを開け始める。
「あ、バッシュだぁ」向こうで円香が大きな声を上げた。バスケットシューズだったようである。
「高級品?」往葵が訊いている。
「うん、これすっごいイイやつだよぉ」
「うわ、MacBookだ」直後に開けられた彼の分はノートパソコンだった。「こんな立派な物もらってもいいんですか? ただでさえお邪魔してるのに」
「いいのいいの!」
 ただ、百々が冷静に見たところあの製品はエントリークラスで、確か十万そこそこの筈だった。シューズの方が高価いのではないだろうか。
 さて自分の紙袋を開けると、意外な物が出てきた。SP盤レコードである。アーティストは小塚政直。確か六十年代にいち早くファンクをやっていた、日本では珍しいミュージシャンだった筈。しかし、これを贈られる理由にはさっぱり思い当たらなかった。
「克山さん、私は何故これを戴けたんでしょう?」
 振り返って執事に訊ねる。
「ええ、その品に関しては、これから旦那様から直接説明がある事と思います」彼はさりげなく包み紙を回収しながら応えた。
「そうなんですか」
 またしげしげとジャケットを眺める。
「え、万年筆だ……」城戸が包みを開け終わって呟いた。
「これも結構、良いものみたいね」
「それよりも! もしかして正体バレてるんじゃない?」彼女は声を押し殺して百々に言う。
「あ、なるほどね。でもそれはたまたまなんじゃないかな」
「そうかなぁー。不安」
 見回してみると慶子夫人にはストール。東野氏にはカフス。時任には指輪。楢崎にはサバイバルナイフ。中之倉には食器が贈られていた。
「なんじゃこりゃあ?」
 楢崎だけは納得がいかなかったようだ。別にサバイバルする趣味もないのだろうか。ちなみに彼は、室内でも色メガネをかけたままだった。
「あなたと楢崎さんで戦ったら、万年筆の勝ちね」と百々が言うと、城戸は一瞬後に意味を理解して吹き出した。値段の事ではない。
「主人の分はどうしたらいいのかしら?」
 皆がプレゼントを開け終わった頃、慶子夫人が声を上げた。
「ここは施錠しますので、ひとまず奥様がお持ち下さい」克山が返答している。
「できればこっそり部屋の写真撮りたいんだけど、隙がないなあ」城戸が百々に囁いた。そういえば彼女には、本来の使命があったのだ。メイドの姿はもうないが、執事が常に皆の様子を見ている。
「今は大人しくしてたほうがいいわ。つまみ出されるわよ」
 体で死角を作ってやるとか、克山に話し掛けて気を引く、という手もあるが、さすがに直接手を貸すのは気が進まなかった。
「それでは、地下で旦那様のセレモニーがございます」
 克山は皆をまず部屋の外へ誘導し、カチリと音を立ててドアに鍵を掛けた。百々はそれを見て不思議に思う。もう価値のあるものはないし、明かりも点けっ放しだった。
 廊下へ出た後一同は奥へ進み、また別のドアの鍵が開けられた。中は真っ暗で、戸口から入った光のみが、下へ向かう螺旋階段を浮かび上がらせている。
「足元にお気を付けてお入りになって下さい」
 この館に慣れた人々は、明かりがないのにもかかわらず平然と踊り場へ入ってゆく。往葵は円香に手を引かれ、百々と城戸は恐る恐る、後に付いていった。そして全員が入ると最後尾で克山がドアを閉め、その場は真っ暗になった。
 しかし一秒後スイッチが入れられたらしい。
「わあ」
 あまり物事に動じない百々も、思わず小さく声を上げた。

 漆黒の空間に煌びやかなイルミネーションが浮かび上がる。鮮やかな赤、緑、青の光点。所々には小さな液晶モニターのようなものがあり、幻想的な光の波を映し出している。しかもそれらが、相対的な位置をずらしながら少しずつ回転していた。

「いつ観ても綺麗ねぇ……これは」
 慶子夫人が嬉しそうな声を出す。毎年来ている人間も飽きさせないだけの魅力が、この空間には確かにあった。

    6

 踊り場に入る時は足元が不安だったので、往葵は円香に手を握られても抵抗しなかった。しかしドアが閉められて周りが見えなくなると、彼女は更に身体の側面へしがみついてきた。
「ほら……素敵でしょ?」円香がイルミネーションを眺めながらうっとりした声で囁く。
「うん、まあ、これが遊園地にあっても十分お金を取れるね」
 往葵はわざとドライな返答をした。
「もぉ……」それは彼女にそう言わせるだけの効果しかもたらさなかった。相変わらずベッタリとくっつかれている。どうにも、却って気持ちが引いてしまう。
 いつの間にか、螺旋階段の一段一段にも小さな明かりが点灯していた。踏み外さないギリギリの光量で、相変わらず空間の大部分は闇に沈んでいる。
「それでは、ゆっくりと降りて参りましょう」
 克山はいつの間にか脇をすり抜け、先頭に立っていた。皆少しずつ階段を下ってゆく。手摺りがあったのでしっかりと掴んだ。
 イルミネーションは時折回転のスピードや方向を変え、非日常的な浮遊感が引き起こされた。おそらく心理面まで計算し尽くされたデザインだ、と、またドライに分析してしまう。それでも、降りるうちに段々気持ち良くなってきた。
 百々と手をつないでここを降りていたら、どんな気分だっただろうか。この暗さで、円香がひっついているのが最後までバレなければいいな……などとつい考え、慌てて掻き消した。さすがに円香に対して失礼だ。別に彼女が嫌いなわけではない。しかし、実際どういうつもりなんだ、と自分自身に突っ込む。
 どれだけの高さを下ったのか照明と隣の女のせいで判断できなかったが、おそらく単純に1フロア分であろう。一同は階段の終わりへ辿り着いた。そこにあったドアには鍵がかけられていなかったようで、克山がすぐに押し開く。
 まず目に入ってきたのはグランドピアノだった。スポットライトが当たり、その向かって左側に置かれた椅子に、白髪の老人が黒いスーツを着て座っている。外側の空間は照らされず、階段室と統一されたイルミネーションのみが瞬いていた。広さは判りにくかったが、高校の教室より少し大きいくらいではないか。
「やあ、よく来たね」
 老人は座ったままこちらを向いて言った。瀧沢邦親氏だ。確か歳は六十七。
 白い髭が顎を覆い、頬もこけていて、ウイークエンド時代と人相が大分変わっている。眼光が鋭く、声に確かな威厳があるのにもかかわらず、口調だけは異様に若々しかった。
「お義父様、こんばんは。今年も素敵なプレゼントをありがとうございます」まず慶子夫人が挨拶をした。皆も次々にそれに倣う。邦親氏はそれぞれに頷き返した。
「今年も呼んでもらっちゃってどうも。ところで、なんで俺はナイフなんだい?」楢崎が軽い調子で訊く。
「別に、直感だよ。今のお前に必要な気がしたのさ」邦親氏は、声に僅かに笑いを滲ませながら言った。
「へぇ」
 楢崎の方は肩を竦める。この遣り取りを見るに、ある程度は気安い仲なのだろうか?
 最後に百々が前へ進み出た。
「お初にお目にかかります、希理優百々です。突然のお願いにもかかわらずお招き戴いて恐縮しています」
「おお、君が希理優さんの娘なんだね? なるほど、瞳がそっくりだ」
「そうなのですか?」彼女は首を傾げる。
「うん、あの方はあの瞳で、あらゆる物事を見通していたんだ。今でも尊敬してるよ……」
 その言葉に、慶子夫人や東野氏が初めて、興味深そうな視線を百々へ向けた。ここは螺旋階段よりは明るく、皆の表情が判る。もう円香も往葵の腕から離れていた。
「私へ戴いたプレゼントなのですけれど、このレコードはどういうものなのでしょうか?」百々はジャケットを紙袋から取り出して胸の前で持った。
「実はそれはね、ベースを希理優さんがレコーディングしたんだよ」
「ええっ!」
 往葵の記憶では、彼女と父親とは四十以上歳が離れていた筈。生前は邦親氏よりやや年上だった事になる。
「クレジットにも載ってないけど、確かな事さ。それはそもそも僕がスタジオミュージシャンとして受けた仕事だったんだけど、たまたま見物に来ていた希理優さんに是非にと代わって貰ったんだ。あの方のファンクベースは絶品だったからね。僕が弾くよりよっぽどいい作品に仕上がったよ」
 なんと、未だに名ベーシストとして語り継がれている邦親氏が、他人をベタ褒めしている。
「楽器をやっていた事は聞いていましたが、プロの作品に参加していたなんて……」百々はレコードを胸に抱き締め、まだ驚いた表情をしていた。
「希理優さんは六十年代当時既に、僕達プロ以上の演奏力があったんだよ?」彼は軽く両手を広げて語る。「あまりにレベルが高過ぎて、歌謡曲なんかじゃやり甲斐がないっていうんで、音楽の世界に入らなかったに過ぎない。流石、ビジネスの分野でも見事に成功したけどね」
「そうなんですか……」
「結局、そのレコードでしかあの方の演奏はもう聴けないんだよ。CD化もされていない」
「最高のプレゼントを戴きました。本当にありがとうございます」百々は深々と礼をした。
「いいのさ。希理優さんには大変にお世話になったんだ。ところで、貴女は何か楽器は?」
「ええ……腕前はとてもお見せできるものではありませんが……」彼女は恥ずかしそうに言った。「ベースをやっているんです」
 それまで邦親氏の表情はよく読めなかったが、この時は髭の奥でにっこりと笑ったのがはっきりと判った。
 
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