3
都市部を出発した電車は、窓に映る雪色を増してゆく。
隣に座る往葵は相変わらずニコニコとしながら時折話し掛けてくれた。しかし景色を眺めている時の表情を盗み見ると、いつもの憂いが浮かんでいた。そう、恐らく百々しか気付いていないが、笑顔の時でさえどうしても消えない陰りが、彼にはある。
端正に走る顎の線より、生まれつき茶色がかった柔らかな髪より、往葵の独特な魅力の源はこの憂い、陰りだと思う。
杜能塚雅征博士は、百々が大学生の時亡くなった。まだ小さかった往葵に父の記憶はない。不幸中の幸いというのか妻と息子には多少の財産が残され、特に不自由なく暮らしてくることができたようだ。
その出来事が影響しているのかはわからないが、往葵は不思議な雰囲気を纏って成長していた。
百々が観察してきたところによると、彼は約二年毎に暗い性格と明るい性格に切り替わっている。まず十歳ほどの時、それまで明るかった彼は急に塞ぎ込むようになった。周囲は心配したが、程なくして明るさは取り戻された。それが十二歳の頃。しかし十四歳になると、また彼の精神は酷い状態に陥ったのである。それぞれ、特にきっかけとなるような出来事も判明していない。
思い出すのも痛ましいような、いくつかの危機があった。それをなんとか切り抜けて、現在十六歳の彼は再び楽しそうに暮らしている。しかしその不安定さを百々は意識せずにいられない。十八歳になった時またあの時期がやってくるのかと思うと、心配で堪らなかった。願わくば、雅征博士のような哀しい最期を迎える事だけは避けさせてあげたい。
一時間ほど走り、午後二時半に電車は目的地へ到着した。東北地方に属するA県ではS市だけが大都市で、ほんの少し遠くへ離れるだけで完全に田舎の風景となる。降り立った駅は最低限の設備は揃っているものの、寂しい印象のところだった。
プラスチック椅子に残るタバコの焦げ痕。ボタンの表面がくすんだ券売機。それらの間を砂埃が吹き抜ける。
それらは百々の地元にもよく似ていて、待合室に蕎麦屋が隣接しているというディテールまで同じだったが、どうやらそこは潰れていた。しかし数年ぶりに帰省してみれば、あちらももう無いだろうか……。
「楽しみですね、パーティー」
「あ、うん、そうね」
駅の出口で往葵が明るく言って、急に現実へ引き戻された。多分迷いこんでいた場所は『暗い事ばかり考えてしまうワールド』だろう。百々にとっては庭のようなものだ。こちらが明るい性格に切り替わるのは百年周期ぐらい必要かもしれない。
パーティーは実際楽しみだった。極めて珍しく能動的に電話を掛けたりしてわざわざ参加権を手に入れた理由は、実のところ至って単純。大ファンの歌手、時任由芽子(ときとう ゆめこ)がミニディナーショーを行うと聞いたからなのである。それが観られる事を思い出してちょっとウキウキして来たが、多分外見は暗いままだろう。
一応ちゃんとタクシーは常駐していた。ただし運転手は昼寝中。
「あのー、よろしいですか」少し開いた窓から百々が声を掛ける。
「ん、おお、ほいほい、どうぞ」
少々不安だったが、パッと目覚めたようだ。ここで仕事をしているとそんな技術が上達するのかもしれない。
「瀧沢邦親さんのところへお願いします」
「あーあの山の上な」
乾いた音を立てて自動でドアが閉まり、車は走り出す。駅前には商店街らしきものがあったが、建物は古びた一階建てが多く、昼間だというのに半分以上シャッターが閉まっていた。
「そういえばこの時期、たまにあそごさ乗せで行ぐ人いだっすな」
運転手は方言丸出しだった。風景同様、S市を離れるとこれが普通である。
「毎年少人数でパーティーをやってるみたいです」往葵が応えた。彼のような若者は、もう一切訛らない。(でもクラスに一人ぐらいは居たりするらしい)
「なんだが有名人が隠居してらったすべ?」
「ええ、『ウイークエンド』っていう昔のバンドの人です」
「音楽のごどはよぐわがらねすばってなぁ」
「他の時期は違うんですか?」百々が訊いた。
「俺一年中いっつも駅さ居るばって、冬以外は全然来ねっすなぁ。あそごの家ってばなんも噂も聞こえで来ねえし」
この小さな町ではちょっとした事でもすぐ、口から口へと伝わるだろう。タクシー運転手すら知らないのなら、本当に何の出来事もないと判断できる。
しばらく走ると斜面に差し掛かった。道は左右に切り返しながら上へ続いている。登るにつれ周りは完全に森になった。
「別館の方でいいったすな?」「ええ」
山中に建つ瀧沢邸は本館と別館に分かれていて、後者に来客が宿泊するようになっているらしい。そして頂上近くにある本館で邦親氏が暮らしていて、パーティーはそちらへ移動して行われるという。
樹々が開けたと思うと、二階建てで細長い館が姿を現した。板チョコのように整然と四角い窓が並び、L字型に向こうに折れた部分はガラス張りである。
「綺麗な建物ね……」百々は眼鏡の中で少し目を見開いて言った。
「そうですね」往葵も意匠の凝らされた窓枠を見上げている。
立派な鉄柵の門が既に開いていたのでタクシーはゆっくりとそこを通過し、玄関の前で横向きに止まった。
料金を支払って降りると、館の中から燕尾服に蝶ネクタイという格好をした男が歩み出てきた。
「希理優百々様ですね、本日は当『籠瀧館(ろうろうかん)』へ、ようこそいらっしゃいました」
彼はよく響くバリトンで言い、丁寧に礼をする。館にそんな名前が付いていたとは初めて知った。
「はい、よろしくお願いします」後ろにいた百々は前へ出て会釈する。
「そちらは杜能塚往葵様ですね」背を真っ直ぐに戻した男は目だけをジロリと動かして往葵を見た。少々態度が冷たい。彼の事は歓迎していないのだろうか?
「はい、お邪魔します……」往葵はおずおずと頭を下げる。
「本来はお迎えに上がらねばならない所、誠に申し訳ございません。なにぶん人手が少ないものですので」再び百々には丁寧な物腰が向けられた。
「い、いえ、いいんです」却って緊張し、百々は焦りながら片手を左右に振る。
「お荷物をお持ちしましょう」
大して重いバッグではなかったが、断る間もなく奪われてしまった。
ガラス張りの玄関で雪を落とし、靴のまま奥へと進む。するとまず小さなホテルのようなカウンターがあった。あまり広い空間ではないものの、椅子とテーブルも置かれている。インテリアは外観から予想されるより地味だったが、壁掛け時計など一つ一つの物は趣味が良い。
「希理優様は102号室、杜能塚様は103号室でございます。キーはこちらになります」
燕尾服の男がカウンターの向こうへ回って黒い紐のついたノートを繰りながら説明し、抽斗から金色の鍵を取り出した。どうにも、現代に生きる自分達には見た事のない風景と人種である。
「申し遅れましたがわたくし、当家の執事をさせて戴いております克山(かつやま)と申します」
彼はカウンターの横まで出てきてからまた長身を折った。改めて観察するとけっこう若いようで、三十歳前後だろうか。髪は油で七三に固め、鼻の下に髭を生やしている。一切愛想笑いはせず真面目な表情を崩さない。
「お部屋までご案内致します」
すぐそこに101号室のプレートが見えていたので勝手に判るのだが、克山はまた百々のバッグを持って歩き出した。カウンターに向かって左側に上へ向かう階段があり、右側に一階の客室が並んでいる。ドアは四つ、つまり104号室(もしくは呼び名が105号室か)まであるようだ。廊下には赤い絨毯が敷かれていて、歩いてもほとんど足音が鳴らなかった。
「それでは、ごゆっくりお過ごし下さい。クリスマスのセレモニーとパーティーは本館で七時からになります。六時半にマイクロバスでお迎えに上がりますのでご準備の上、玄関へお集まり下さるようお願い致します。ご要望などありましたら何なりとお申し付け下さい。わたくしの姿が見えない場合は、お部屋かカウンターの電話からご連絡戴ければすぐに参上致します」
「は、はい、わかりました」あまりに丁寧過ぎて、ただただ圧倒される。
若き執事はバッグを置き、ドアの前でまた一礼してから去っていった。
「……ふう、凄い人ですね」一緒に102号室へ付いてきていた往葵が、長く息を吐き出してから笑顔になった。
「ええ、こんな世界もあるのね……」百々は片頬に掌を当てて呟いた。
4
部屋の電話に連絡を受けて円香は202号室を飛び出した。階段を降りると、玄関を出ようとしていた克山がこちらに気付いて振り向く。
「円香様、わたくしはあちらでパーティーの準備を手伝って参りますので」
「うん、頑張ってね〜」
彼に軽く手を振りながら足を止めずカウンター前を横切った。昔から仕えられているので、つい適当に扱ってしまう。
そして往葵の部屋だと聞いた103号室のドアをコンコンとノック。しかし、返事がない。
「あれぇ?」
一人で首を捻っていると左隣のドアが開いた。
「あ、円香さん」彼が出てきて微笑み、片手を挙げた。
「往葵君! 部屋そっちだったの?」
「ううん、百々さんと話してたんですよ」
「へ、へぇ〜」
(ホント、どういう関係なんだろう)と心の中で呟く。
すると後ろから眼鏡の女が顔を出した。
「どなた?」
「僕を招待してくれた東野円香さんです。同級生の」往葵は彼女へ振り向いて説明した。
「ああ、こんにちわ。希理優百々です」
「こんにちわ……」
百々へ向かって一応の礼をしながらもそのまま目を離さなかったので、上目遣いに睨むような形になってしまった。肌が白く三十よりは若く見えるが、髪が長ったらしくてかなり暗い感じの女だ。円香自身はショートカット、そして身長差があるので雰囲気は完全に正反対である。果たしてどっちが往葵の好みなのか……。
「ねえ、あたしの部屋でお話しようよ」
旅先の解放感と百々への対抗心をバネのように利用して、彼の二の腕を引っ張った。
「ああ、そうですね、招待してもらったんだし……」往葵は歯切れ悪く言った。百々への言い訳だろうか?
「じゃあ、ちょっと行って来ます」彼は彼女にそう声を掛け、またこちらを向いた。「えーと、何号室?」
「202だよ」
「だそうです。そこにいますので」慌ただしくまた後ろを向いている。どうも動きが不自然である。
「ええ。」奥に居る百々は無表情のまま頷き、静かに部屋へ引っ込んだ。若い女の登場に動揺している様子は、少なくとも見た目には表れていない。
彼はまだリュックを片手に提げていたので、一旦103号室の鍵を開けて放り込んだ。
「この建物、今他に誰が居るんですか?」
「えーとね、うちのパパが201で、伯父さんと伯母さんが203にいるよ」
部屋は総てベッドが二つずつ用意されているので例年は父親と同室だったのだが、今年は別けてもらったのだ。この機会に個室である事をさりげなくアピールした。
「あとパーティーの参加者は?」
「歌手の時任さんと楢崎(ならさき)さんと、あとスピーカーとか繋ぐ中之倉さんっていう人で全部かな」
「ふうん。今本館に居るのは?」
「あ、その中之倉さんは今そこで準備してるんだけどね。歌手の人達はギリギリに来るかも。あとあっちで働いてるのは、執事の克山さんとメイドの梁木原(やなぎはら)さん」
「凄いね、メイドまでいたんだ」往葵はちょっと笑顔になって感心している。
話しながら階段を上り、202号室に入った。
「紅茶飲む?」
「うん」
「お菓子もあるよぉ。あ、座って座って」
往葵をソファに座らせ、陶器のポットから紅茶を注ぐ。よく知らないが高級品で、いつまでも冷めない代物である。そしてお菓子も出してくる。学校ではおてんばキャラで定着してしまったが、一応きちんとした動作もできるのだ。
ちょっと女らしい所を見せつけられたかなと思ったが、往葵の隣に座った時自分の服装がパーカーとジーンズだったのに気付いた。パーティーではドレスに着替えるが、今もスカートくらいはいておけばよかった。
「あ、美味しい」一口飲んで往葵はニコリとする。
「往葵君の部屋にも置いてある筈だよ」
「そうなんですか? 説明されなかったけど」
「そっか、克山はあって当たり前だと思ってるんだよ」
「なるほどね……世界が違うなあ」彼はティーカップを持ち上げて模様を眺め、感心したように言った。
大分打ち解けた今でも、往葵は半分ほど丁寧語を使って会話していた。円香が学校で聞き耳を立ててみると男友達に対しても同じようだったので、染み付いた性質なのだろう。しかし、いつか自分へ向けられる言葉から丁寧語が全て消えてしまえばいいな、と思っている。そうなった時、彼との距離も消えるのだ。
「そういえば、セレモニーって何なんですか?」往葵はまた質問をした。
「えーとね、毎年同じスケジュールなんだけど、まず本館に着いたらプレゼントルームに入るの」
「何それ?」
「その年のお客にお祖父様がそれぞれクリスマスプレゼントを用意して、一部屋にまとめて置いてあるの。あたしはプレステとか、あ、昔バスケットのゴールも貰ったんだ」
「そんな大きいものが部屋に?」
「ううん、さすがにそこにはなかったよ。なんかその時のクリスマスはやけに小さいプレゼントだなって思いながら開けたら、自分ちの庭にゴールが置いてあるポラロイド写真だったの。うわあウチにゴールがある、って感動したな〜」
「出かける時は無かったんだ?」
「そうそう」
「急いで設置して、写真が先回りしたんですね。なかなか洒落た事をするお祖父さんだ」往葵は楽しそうに首を傾けつつ、腕組みの姿勢になった。
「うん、普段は会えないけど、優しいんだよ。あ、それで、プレゼントを受け取った後地下のお祖父様の部屋に行って、ピアノの演奏を聴くの。一年に一度だけ姿が見られる事になるわけ」
「確か元々はベーシストでしたよね? 今はピアノを弾くんだ」
「そう、クリスマスの時は毎回それだよ。部屋にいろんな楽器は置いてあったけど」
「どうして普段は会えないの?」
「わかんない。ずっと地下の部屋に居て、食事も小さいエレベーターで梁木原さんが送るんだって。昔の音楽関係者とかが来ても絶対に会わないみたい」
「それは徹底してるね……」
「でも、地下に行く階段はすごいキレイに飾ってあって、特別な日にピッタリな感じだよ。楽しみにしててね」
「へえ、どんなのだろ」
「それで、お祖父様に会った後は上に戻って、ホールでパーティーをするの」
「本館は大きいんですね?」
「ううん、あんまり大きくはないけど、真ん中がぽっかり空いてるから」
「ふむふむ」
「行けばわかるよ。それでパーティーは毎年有名な歌手の人が、十人そこそこの為に歌ってくれるの」
「あの時任さんが来るなんて、相当凄いですよね。やっぱり瀧沢邦親氏は偉大なミュージシャンだって事か……」