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「さて、今年の演奏を聴いてもらおうか……」
 邦親氏は瀧沢駿氏がいない事については全く触れず、横へ向きを変えた。ヴォーカルマイクは無いので、ピアノのみを奏でるようである。
 百々には段取りの予備知識がなかったものの、彼の言葉からすると毎年演奏を披露しているのだろう。急いでレコードを仕舞ったが、紙袋の仕上げが良いらしくカサカサと鳴ってしまうような事はなかった。他の人々の持ち物も一切音を立てない。
 皆は立ったまま、邦親氏の姿に吸い込まれるように意識を集中させてゆく。そして一瞬、周囲がフッと浮かび上がったような錯覚に囚われたが、それは遠くを取り囲む壁のイルミネーションが消えてスポットライトのみになったためだった。

 演者は目を瞑り鍵盤に手を置く。間隙の後、音の粒が静寂を追い掛け始めた。
 曲は長調か短調かも判然としない現代音楽風。次に十二音の何処へ向かうのか、全く予測がつかない。
 高音部のタッチは素早く、手首を一振りするだけでいくつもの音数が産声を上げる。低音部はそこに突如壁が立ち上がる錯覚を覚える程に、重厚な倍音の塊を打ち出す。
 拍子は辛うじて四拍子のようだが、切り出されるリズムは尋常のものではない。
 音楽において決して趣味の狭くない百々だが、彼女がこれまで聴いてきたあらゆる楽曲の、そのどれにも似ていなかった。そう、邦親氏は一年中地下に籠って、この新しい音楽を探求しているのだ。
 老境の音楽家が、闇の中で打鍵つ。最後の部分だけは何故か、クラシカルなカデンツで締め括られた。

 曲の長さは五分よりは幾分か長い――七分くらいだったろうか。しかしその間、地上から別世界へやってきた面々は身じろぎ一つせず聴いていた。
 邦親氏は演奏が終わると、ピアノの脇にあったスイッチを操作して再びイルミネーションを点けた。それによって、やっと聴衆は闇の深淵から帰還を果たす。演奏が凄すぎて逆に拍手が起こる雰囲気ではなく、溜息だけがいくつか吐き出された。
「これが、この一年の解答さ。感想は要らないよ。あとは上でパーティーを楽しんでいきなさい」
 一同はただただ、頷いた。慶子夫人なども声を出さない。おそらくこのセレモニーが行われるようになった当初は「素晴らしいですわ」などと言ったと想像されるが、邦親氏はそれに対して怒ったのかもしれない。それほど、あの音楽に陳腐な感想は不要だ。
 もう一度スイッチが押されると、背後で階段のドアが、ゆっくりと浮かび上がるようにライトアップされた。楽譜で言えばクレッシェンドである。
「それでは、上へ参りましょう」
 克山が宣言してドアの方に歩き出した。皆は無言でついて行き、そのまま螺旋階段の部屋へ入る。百々は最後尾になり、ドアの手前で振り返った。邦親氏がこちらを見つめている。彼女はもう一度、深々と礼をした。

 階段の周りでは、相変わらずイルミネーションと小さなモニターがゆるやかに回転している。克山がドアを閉め少し上り始めたところで、やっと会話が復活した。
「いやあ、今年も凄かったね」前で東野氏の声がする。「僕は音楽はよく解らないけれど、そんな人間にも凄さが伝わる事がまた凄い。正に、音楽の仙人だよ」
 少々俗な表現だが、白い髭に包まれた見た目などからも、仙人という呼び名は確かに似合う。
「世界中探しても、あんな音楽はないかもしれないですよ」
 時任の声がした。彼女が言うと重みがある。とても真剣な調子で、『ミュージシャンとして身が引き締まる』といったような思いが感じられた。
「イカしたエピソード、ゲット」暗さに弱いのか、手摺りと百々の腕に掴まりながら上っていた城戸が囁く。
「希理優百々さんだっけ? ベースはかなり弾けんの?」
 城戸の前に居た楢崎が訊ねてきた。顔はかろうじて見える。
「いえ、本当に、まだまだですよ」急に男性に話し掛けられたので、百々はびっくりしながら応えた。
「そう? 後でセッションでもやらねえ?」
「楽器がないじゃないですかぁ」もっと上から中之倉の声がする。「アンプはまぁ、無くてもなんとかなる事はタシカですけどね」
「お前、どっかからベース調達して来いよ」
「エエェ、勘弁して下さいよぉ」
「プロの方と弾くなんて恥ずかしいですから、すみません」百々は謝って話を止めた。
「俺は、プロっつっても駄目駄目だけどなぁ」
 楢崎は投げ遣りに言う。
「ねえねえ、瀧沢さんはベース貸してくれないの? あたしも弾くとこ見たいな」城戸が口を挟んだ。
「そんな事頼めるわけないでしょ」
「あー、もし安物をスペアで持ってたとしても、もう扉を開けてくれないでしょうねぇ。邦親さんは一年にあの時だけしか人に会われないですから」中之倉が言った。「もし小ヒィさい物だったら! 食事用エレベヘェーターで上げてくれるかもしれませんけどホホホホォ」
「子供用かよ?」楢崎は一応突っ込んでやっている。
 上階のドアが開けられ、久し振りに明るい空間へ出た。
「それでは、パーティーに入りたいと思います。ホールへどうぞ」
 克山はそう言ってから、目の前に広がる黒いカーテンの真ん中へ手を差し入れる。どうやら二枚がそこで重なり合っているらしい。切れ目を探り当てると彼は人間が通れる広さに開き、そのまま高い位置で押さえて待った。
「さあ、着替えなきゃ」時任が先頭で中に入り、皆も細く連なって続く。また百々が最後尾である。
 ホールと呼ばれた空間はそれほど広くはないが、天井がピラミッド状に高くなっていた。上品なテーブルがいくつか並び、全体が白っぽくまとめられている。それと対になるかのように、カーテンだけが黒かった。今入ってきた反対側にも同じように掛けられ、左右の空間を区切っている。
 カーテンのない方向の片側は、階段のように床が少しずつ上がってゆき、最上段だけ広い奥行きが取られていた。そこが今は両脇にスピーカーを抱え、ステージである事を主張している。時任がその奥へ小走りで入って行くのが見えた。
「料理をお運び致しますので、お席についてお待ち下さい。ネームプレートがございます」
 テーブルは大きいものが三つ。人数が少ないので、少々寂しい雰囲気が感じられなくもない。ステージの方向を空けて三人分ずつ席が作られていて、瀧沢駿・慶子夫妻と共に時任が、東野父娘と共に往葵が座る振り分け。残りの楢崎と百々、そして飛び入りの城戸が少し後ろの位置のテーブルだった。中之倉は機材を操作しなければならないらしく、席がない。斜め後ろにはグラスのたくさん載った小さなテーブルが置かれていた。
「楢崎さんが後から演奏されるんですか?」隣へ座った彼に城戸が訊ねた。
「ああ、メシ食ってるのにノリのいい曲やってもシラけるしな。格から言ったら、どう考えても俺が前座だがね」楢崎は自嘲するように笑う。
「そんな事ないですよ! テレビにだって出てるじゃないですか」
「でも全然売れてねぇんだぜ? みんな不況だから順位は十五位くらいまで上がるとしても、実は全然枚数が少ねぇんだ。虚しいねぇ」
 彼は椅子に浅く座って体を反らせ、背もたれに頭を載せた。
「そうなんですかぁ」
 百々が黙って観察していると、城戸はまだ何か訊きたそうな顔である。収入的に生活は大丈夫なのか、というような事だろうが、さすがに自重したようだ。
 程なく、反対側のカーテンの隙間から、半球型の蓋がついたトレイを持った執事とメイドが往復し始めた。おそらく奥にキッチンがあって、梁木原がずっと料理を準備していたのだろう。
 ステージでは時任が脇から顔だけ出して合図し、中之倉が上がっていって機材を操作し始める。前方のテーブルを見ると往葵と円香がプレゼントを再び出して見せ合い、慶子夫人はポツリと一人で座っていた。

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