4

 今はらせん階段の周りを、あのイルミネーションが飾ってはいない。最小限の照明に抑えられた空間は、とても寂しい印象へと変わっていた。手摺りには白い粉が残っていたため、百々は手を腰の後ろで組んだまま、一歩一歩ゆっくりと地下へ降りていった。
 邦親氏の住処に到着するなり、彼はあっさりと裏口の仕掛けを教えてくれた。キーとなる一つの柱を斜めに引くと抜けるようになっているというのだが、予め知らなければ確かに、絶対に気付く事は出来ないだろう。
「そうか、あの指紋は……!」
 麻績警部はそう呟くと、上階へ駆け上がって行ってしまった。警察が調べた方のらせん階段は『上り』にしか使われていない為、確信が持てるほどではないものの、指紋のつき方が不自然だったのだろう。
「こんな仕掛けがあったのでは、貴方が共犯だと判断されても仕方がないと思います。どんなおつもりだったのですか? 克山さんに、実際に指示を出したのですか?」
「誤解しないで貰いたいな」邦親氏は微笑し、髭の生えた顎の向きを変えながら言った。「館を反転する趣向は、毎年行っているんだよ」
「毎年?」百々は最初はポカンとしてしまった。だが、徐々に恐ろしさが込み上げてくる――。
「ここを建てた年のクリスマスから、必ずそういうスケジュールでやってきたよ。執事もメイドも、もう慣れたもんさ」
「何故、そんな事を?」
 百々は視線に力を入れ、敢えて訊いた。とっくに理解っているのに、理解りたくないのかもしれない。
「勿論、ただの遊びさ。いつか客の誰かが気付いてくれるのを、僕はワクワクして待ってた。流石は希理優さんの娘さんだよ」
 邦親氏は、心底楽しそうな顔で語る。まるで少年のような無邪気さで。しかしそれは……。
「違うのでしょう?」
 こちらの鋭い言葉に、彼は笑みを消した。目が冷徹に細められる。
「誰かが気付くのを待っていた、ですって? そんな些細な目的のために、こんな大掛かりな仕組みを用意しますか?」百々は、ピアノの前で座ったままの邦親氏に詰問する。
「僕はお金なら、あり余って仕方ないほど持ってる。若い頃に大抵の遊びはやり尽くした。どんなところに楽しみを見出そうと、不思議はないと思うけどね」
「この館を利用した殺人事件が起こるのを――待っていたのでは?」
 拳を握り、言葉を吐き出した。
「その質問に対する答えも、全く同じさ」彼は簡単に言った。
「――――!」
 作り話めいた大掛かりなトリック。克山は、なにも好き好んであんな計画を立てたのではない。自分の目的の為、もっとシンプルな方法で殺人が行えた筈。それなのに、邦親氏が目の前にチラつかせた餌に、思わず飛びついてしまった。
 華々しくもあり、馬鹿馬鹿しくもある事件。彼はその主役に仕立て上げられたのだ。地下の闇から眺め、嗤うために。
「この十年、これほど刺激的な日はなかった」
 邦親氏は、先刻以上の満足気な笑みを浮かべた。
 ここに来るまで、百々は自らの考えに確信を持ちながらも、それが間違っていて欲しいと願っていた。しかしやはり彼は、非人道的な思想を持った人間だった。
「刺激ならば……ここから外の世界に出ればきっと……あったのでは?」途切れ途切れに言う。
「わかっていて貰えなかったようだね。僕の人生の第一目的はあくまで、新しい音楽を追及し続ける事さ。部屋の広さなんか関係ない。楽器の中に、無限の世界があるのだから」
 百々は、ハッとした。それは自分も同じだったからだ。
 大学院の修了が近付いた頃、理学部の助手として残らないか、と誘われた事があった。研究を続けながら給料が出る立場で、教授への道にもなる。だが、あらゆる時間を僅かも無駄にしたくなかった。家に籠もっていても、数字の中に、無限の世界がある。
「普段はそうやって全てを削ぎ落としてるんだけどね。どうしてか、別の刺激が欲しくなるんだ――一年に一度くらいはさ。貴女は違うかな?」
 邦親氏の言葉に、今度は往葵の事を連想した。彼と貸しスタジオで楽器を弾く予定日を、いつの間にか心待ちにしている自分。それとは違うのか?
「……わかりません」

    5

 往葵の説明に一瞬静まり返った102号室へ、木村警部がドタドタと飛び込んできた。
「阿由川さん!」
「どうしました?」
「克山が……見つかりました」
「なんですって?」
 部屋の中のほぼ全員が、驚きの表情に変わる。ほぼ? 往葵は、彼らの中に例外がいる事を不思議に思った。
「一体どこで?」口が最も早く動いたのは城戸。
「ええと、お客の皆さんには公開スていいんダすかな」木村はキョロキョロする。
「いいでしょう。どこに居たんです?」阿由川が許可した。
「瀧沢邦親氏の証言で本館に隠し部屋がある事が判明しまスて、その中で、死亡した状態で発見されまスた」
「!!!!」

 時間が止まる。しかし。

「動くな!」沈黙は直後、鋭く破られた。

(しまった!)
 往葵はここで今、自分の失敗に気付いた。『彼』の座る位置に注意を払っていなければならなかった!
「何をするんだ!」大声で叫んだのは東野氏。
 楢崎がサバイバルナイフを取り出し、円香の首に当てていた。
「俺は冷静だ。車を一台貰って逃げられれば、それでいい。だが断るようなら、遠慮なくお嬢さんに怪我をさせるぜ」
 彼は口の端で笑いながら、静かに宣言する。確かに冷静だ。しかしそれが、最も円香の身を危険にしていた。
「じゃあ、お前が克山を……? 何故だ?」阿由川は姿勢を低く構えている。拳銃は携帯していなかったようだ。
「楢崎さん――貴方は苗場さんの息子ですね?」
 往葵は、できる限り、努めて、厳かに言った。確証は全くないが、この場面でハッタリくらいの効果はあるかもしれない。
「その通りさ」彼はあっさりと認めた。「本物の名探偵君だったんだな」
「克山さんは、梁木原さんを『うっかり』見つけられてしまった訳ではなかった。もしかすると死体は既に、隠された方の階段室に置いてあったのでは?」
「ああ、そうだ」楢崎は頷いてくれた。けっこう律義だ。
「楢崎さん、貴方も実は、ずっと前からこの館の仕組みを知っていた。だから事件が起こった瞬間、全てが理解できた。誰よりも――名探偵よりも早く」往葵は彼を指さす。「そして克山さんを罠に嵌める方法を思いついた。キッチン、つまり裏口方面で二人きりになったチャンスに彼を殺害し、隠されていた梁木原さんの死体と入れ替える。そうする事によって、『逃走した犯人』という役柄までも入れ替える。工作を終えてからわざと怪我をし、殴られたフリをした」
「あれは狂言だったのか」阿由川が呟く。他の皆は、全く動けずに固まっていた。
 円香が危ないのだから、喋り続けている往葵の方が本来おかしい。それはわかっているが、なんとか楢崎の隙を作り出せないかと、自分なりに必死だった。
「思い出スた!」木村が擦れたような声で突然言った。「何年か前、苗場という男が、女性と共に怪しい死に方をスてたんだ」
「ええ……僕の妻です」
 東野氏が呟いた。事情をよく知らない城戸や中之倉は、発言の度に目を見開いてそちらを振り返っている。
「木村警部、どのように怪しかったんです?」往葵は楢崎から視線を外さないままで訊いた。
「車が炎上スた上に――何故か捜査が打ち切りになったとか」
「なんですって?」阿由川が反応する。
「瀧沢家から圧力が掛かった、という見方は、有り得ませんか?」
「H署にはそんな体質があったと?」
 そう問う阿由川に、木村は苦い顔で目を逸らした。
「当時なら……もスかすると」
「そんな馬鹿な」
「もし有り得たのなら。焼死を利用して、瀧沢氏と苗場氏が入れ替わる事ができなかったでしょうか」
 往葵は両腕を広げて言う。場がどよめき、楢崎は目を細めた。
「あの死体が瀧沢さんで、今地下に居るのが苗場さんだと言うんダすか?」
「そう考えれば、楢崎さんがこの館の仕組みを知っていた事にも頷けます」
「何年か前だった。俺はあの地下室に呼び出された」彼が話し始めた。「その時初めて、自分の親がドラマーの苗場陵一だと教えられた。しかも今は瀧沢邦親のフリをして目の前にいる、だとよ。さすがにしばらくは信じられなかったが……母さんの事をよく知ってたからな」
「克山さんが邦親氏の息子だという事は?」
 この往葵の言葉には、驚く者が少なかった。薄々感付かれていたのだろう。
「それも聞いてたよ。奴は最期まで、あれが親父だと信じてたんだ! ハハッ!」
 彼の乾いた笑い声と歪んだ表情が、改めて部屋に恐怖を走らせる。
「さて、話は終わりだ――そろそろ逃がしてくれないか?」

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