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 克山も戻ってきたが、皆特に発言しなくなったので、百々は時任由芽子について思いを馳せた。
 元々は『新木由芽子』という名前で、1972年にデビュー。1977年に結婚し、今の姓となった。
 世に出た当時の彼女は天才少女と呼ばれ、それまで日本に無かった斬新な楽曲群を発表。だからこそ、そこに『ニューミュージック』という言葉が生まれた。その潮流からは多くの者がフォークへ舵を取る事になるのだが、彼女の音楽は歌謡曲しか存在しなかった日本に『ポップス』を産み落としてゆく。
 瀧沢邦親はウイークエンド解散後、レコード会社を新たに設立し有力な新人を探していた。その折、ちょうど大学時代の新城由芽子と知り合う。そしてプロデュースとベースの演奏を受け持ち、彼女をデビューさせた張本人が彼なのである。今でもクリスマスという特殊な時期にやってくるだけの絆は、十分にあると言えるだろう。
 新城由芽子は四枚のアルバムを発表してシーンの頂点へ登り詰めたが、キーボード奏者と結婚、一時表舞台から姿を消した。そして一年ほど休養した後に『時任由芽子』としてまた定期的にアルバムを発表するようになったのだが、当初は地味な作品が多かった。
 しかし彼女は、もう一度羽ばたき始める。1980年にサーフィン、スキー、そしてクリスマスについての曲をヒットさせ、豊かになりつつあった大衆へ身近な夢を見せる存在になった。作風は明るくなり、天才少女のイメージから『時代を掴むプロフェッショナル』へと変貌。市井のカフェでカップルの会話に聞き耳を立てて作詞のネタを仕入れているといった逸話まで生まれた。
 そして1982年には、映画主題歌で更なる大ヒット。その後も質の高いアルバムを発表し続け、九十年代前半ではその信頼感から、発売日だけで(つまり前評判が存在しないにもかかわらず)百万枚以上を売り上げるといった現象も起きた。
 1994年になると今度は、和風のメロディを取り入れた曲が歳を重ねつつあったスタイルにマッチし、またまた大ヒット――七十年代・八十年代・九十年代の全てでトップクラスの活躍をした数少ないアーティストのうちの一人が、彼女である。年代毎の活躍としては、上記に加え二千年代にまで一位を獲得したアーティストが一人だけ存在するが、アルバムの累積売上では大きく引き離している。数千万枚に上るそれは国内二位(一位はロックユニットのV'z)。とにかく正に、押しも押されもせぬ大物である。
 百々は昔に一度、時任由芽子のコンサートに足を運んだ事がある。それは大掛かりなステージングで素晴らしいものだった。しかしあまりに残念な事に、開始三十分もしないうちに客席で貧血を起こし、ダウンしてしまった……体力が足りなかったのだ。以来コンサートは諦めている。でも今日はテーブルについて倒れる心配もなく、間近で彼女が観られるのである。夢のようだった。
 夢と言えば、彼女の愛称は『ドリーミン』である。由芽子という名前からの連想と、三枚目のアルバム『City girl Dreamin'』から来ている(当時はシティガールという言葉があったのだ)。『ヂーミン』と言うのと同じくらいのスピードを心がけるのが本格的に発音するコツだ、と本人が説明していて、それを体得しているかどうかでファンであるかどうか見分けがついた。
 しかし百々は、大ファンでありながらもドリーミンとは決して呼ばない事にしていた。自分自身も音楽をやっていて、彼女の作曲能力の凄まじさを実感するにつれ、アダ名で呼ぶなど恐れ多いと思い始めたのである。いつも『時任さん』と言っている。

 さて六時半、ついにその時任さんがやってきた。
 マイクロバスの手前にタクシーが着き、彼女がバッグを抱えてたった一人で降りてくる。そう、驚くべきことにマネージャーすら連れていなかった。
「こーんばんわー!」
 彼女は玄関に入ると元気に挨拶した。既に五十は超えた筈だが、驚異的に若々しい。ラフな服装で、すりきれたジーンズをはいていた。
「時任様、ようこそいらっしゃいました。今回のパーティーも宜しくお願い致します」克山が深々と礼をする。
 その場に居た人々が慣れた様子で挨拶を交わす中、百々は後ろの方に隠れ、口元を両手で押さえて固まっていた。
(どうしよう、時任さんがこんなに近くに……。)
「あ、そこのあなたは初めてだねー」
 時任は首を伸ばすようにしてこっちを見た。
「ハ、ハイ。こんばんは」緊張してそれしか言えずに礼をする。
「旦那様が招待なさった希理優百々様です」克山が代わりに紹介してくれた。
「そうなんだ、よろしくね!」
 時任は気さくに近寄ってきて、百々の左腕をポンと叩いた。
(このワンピースはもう洗濯しない!)

 その直後には、東野多賀史・円香・城戸・往葵がほぼ同時に現れた。初対面の者同士はそれぞれ自己紹介をし合う。
「さて、これで駿様以外のお客様が揃った事になります」克山が腰の前で手を組み、皆を見回して喋り始めた。「どなたも心当たりなどありませんでしょうか? もし見えられない場合も、六時四十五分には、バスで本館へ出発致します」
「えっ、それでいいの?」城戸が百々の横に来て囁く。
「よくわからないけれど、邦親氏が決めた絶対のスケジュールなんですって」
「普通ならありえないと思うけど……」
 さすがにやはり、ここで東野氏が腕組みをして発言した。
「もし遭難なんかだったら、できるだけ早く対処した方がいいんじゃないかい?」
「迷うような道なんてないのですけれど」慶子夫人が眉を上げて応える。
「ええ、舗装道路から外れない限りは、問題はない筈です。上の館も下の街も、歩いて行けない距離ではありませんし」克山も補足した。
「しかしもし無理矢理林の中に入ってしまったら、この霧では出てこられなくなる可能性があるというのもタシカですね」中之倉が不吉な内容を口にする。
「何のためにそんな事すんだよ?」壁際から放り投げるような口調で楢崎が突っ込んだ。
「だが、あの時のように――」言いかけて東野氏はハッとしたように円香を一瞬見た。「いや、何でもない」
 彼の表情が急に硬くなった。昔、何か似たような出来事があったのだろうか? 百々はそっと娘の方も観察したが、父の意味あり気な視線には全く気付かなかったようだ。
「うちの夫は、誰かさんとは違いますわよ」慶子夫人が目を細めて言った。
「お義姉さん!」東野氏が険しい表情で彼女を睨む。「やめて下さい」
 夫人はフンと鼻から息を漏らした。他の誰も何の事だかわからないようで、突如として発生した険悪な空気に戸惑っている。克山だけが、無表情で斜め下を見つめていた。
「克山さんのバスなどを木の陰に隠れてやり過ごして、こっそり本館へ向かったんじゃないでしょうか」
 重苦しい雰囲気を破り、突然往葵が発言した。その場のほとんどの人間にとってよく知らない少年に、驚きの視線が集まる。
「何故そう思うの?」慶子夫人が目を丸くして訊ねた。
「いえ、一番そのケースが現実的かと」
「何だ、勘かよ?」楢崎が呆れたように笑う。
「そうではなく……考えてみて下さい。今更街へ逃げ出すのなら初めから来なければいいんですから、他に誰にも知らせずに姿を消すとすれば、本館に秘密の用事があるという理由が最も自然です。瀧沢邦親氏に話があるのか、もしくは、パーティーの参加者に何か悪戯でも仕掛けようという事かもしれません」
 百々は往葵の意見を聞いていて『初めから来なければいい』というのは飛躍しすぎだと思ったが、後半はまあまあ説得力がある。
「まあ、悪戯ね? それならいいのですけれど」夫人は明るい可能性に飛びついて笑顔になった。
「何かの趣向ならば、旦那様に秘密裏に呼ばれたのかもしれませんね。そういう事が好きなお方ではありますから」克山も幾度か頷きながら言う。「では、とりあえずあちらへ向かいましょう」
 会話をしているうちに時間になっていたようだ。皆玄関を出る。楢崎はギターケースを、時任はバッグをそのまま持っていた。

    4

 マイクロバスは十数人が乗れるものだった。克山が座る運転席と客席との間には仕切りがある。
「駿様の姿がないかどうかはわたくしがよく見ておりますので、皆様はごゆっくりどうぞ」わざわざマイクでアナウンスがされた。「念のため、本館の周囲も一周致します」
「周れるようになってるんですか?」往葵は右端へ座った円香に訊いた。
「うん、夏に遊びに来た時はぐるっとジョギングしたりするよ」
「へえ。迷うような横道はないわけだ?」
「全然ないよぉ。裏口があるだけ」
「ふうん」
 窓の外は闇の黒と霧の白が支配権を争うばかりで、ほとんど何も見えない。辛うじて樹々の影が確認できる程度である。ライトで照らされている筈の前方は、仕切りによって客席からは隠されていた。
「ところでさ、さっきいきなり喋り出してビックリしたぁ」円香が笑顔で言う。
「ああ、何か仮説があった方がいいかなと」
「なんか、往葵君って探偵とかできそうじゃない?」
「探偵って?」
「ほら、推理小説で館のみんなを集めて、犯人はあなただ! って」ビッと指さすポーズ。
「ああ、そういうのですか」往葵は普段種々の小説を読んでいて、その中には推理物もよくあった。「憧れないでもないかな」
「やっぱそっかぁ」
「しかし、すごい霧ですね」
 さっきは悪戯という説を提出したが、外の様子を見ていると、どうも不穏な感じにも思えてくる。
「ここは毎年こうなんだよ」
「毎年? この時期は例外なく?」
「確かそうだと思う。山の上だからじゃない?」
「へぇ……」
 中央の通路を挟んで左側の座席には、百々と城戸が座っている。さっき聞いたところによると友達になったらしい。人付き合いの悪い百々の事だから城戸が一方的に自称しているのかもしれないが、実際会話はあるようだ。小さなバスなので声はよく聞こえた。
「ねぇコレ見てよ、ドレスが全然サイズ合わなくてさ、五段位折って無理矢理着たよ」
 城戸はドレスの腹の部分を捲って百々に見せていた。往葵は慌てて視線を逸らす。
「本当ね。本館から持ってきたみたいだけど、誰のかしら」
「克山さんの私物とか? プフー!」城戸は自分で言って吹き出した。
「いけないわ、そんな事言っちゃ」百々は窘めたが、声が微妙に笑っている。
「なんかピンクだしヒラヒラが多いし、全然似合ってないでしょ」
「うーん、確かに、城戸さんは格好いい感じだものね」
「おっと、それは褒め過ぎよ! ガリガリと言っておいて」
「ガリガリはこちらのほうよ……」
「ああ、研究に没頭してるんだもんねぇ。あたしは通販の筋トレグッズとか大好きなのよ。今度貸してあげる!」
「わたしそんなのやったら、ポキッと折れないかしら」
「アハハハハハハ」
 百々も冗談を発したので往葵は驚いた。本当に友達っぽい。城戸が大声を上げたが、慶子夫人は時任と、東野氏も中之倉と会話していて、バス内は賑やかだった。
 ここで城戸は、こちらへ顔を向けた。
「ねー、杜能塚君はももっちとも知り合いなんだよね?」
「え、あ、はい」なんだその、百々の呼称は。
「それでそちらの邦親氏のお孫さんとは、高校の同級生だって?」
「そぉです」円香が応える。
「いいねぇ。青春だぁ」
「何ちょっかい出してるのよ」百々が横で、城戸の袖を引っ張っていた。
「だってほら、親交を深めようと……あっ、楢崎さん、ご機嫌いかがですか?」
 彼女は落ち着き無く、今度は斜め向かいの楢崎へ声を掛ける。往葵もそちらを見遣ると、わざわざズリ落ちそうな姿勢で座っていた。
「ああ、まあまあだねぇ」
 気難しそうにも見える彼だが、やはり女性にはニヤリとして応えている。
 体にかかる遠心力から、さっきからバスが左ばかりへ曲がっている気がしていたが、一際大きく車体を回したかと思うとおもむろに停車した。
 窓の外では、何処からかやってきた光源が霧に拡散し、仄かに明るい空間を作り出している。もう到着したらしい。
「あれ、ほんと近いんだね」と城戸も言った。
 バスを降りてみると、相変わらず鬱蒼とした森の中、異質な人工物の一角がぬっと突き出している。白っぽい石材で構成された壁をいくつかのライトが照らしているが、すぐ周りに樹々が迫っていて館全体の大きさはまるで把握できない。
 建物の角は右側が少し奥まっており、左側に別館と似たガラス張りの玄関が突き出していた。入口は正面ではなく右側から回り込む形になっている。ここも土足のまま入るようで、靴を拭くマットだけが敷かれていた。
 皆で玄関へ入ると、メイド服の女性が一人出迎えに立っていた。なんというかまあ、ぽっちゃりした方である。あのドレスの持ち主が予想できなくもない。
「ミナサマ、ようこそいらっしゃいました」彼女が声を出すと、えらく甲高く甘い発声だった。
「梁木原さん、駿様がこちらへ見えられませんでしたか?」先頭の克山が訊ねる。
「いえ、そんな事はございませんが」メイドはオーバーなほどに驚いた顔をした。
「いつの間にかいなくなってしまったのよ。ま、一応この建物も見回ってみてちょうだい」慶子夫人は彼女へそう命じたが、悪戯説を信じているらしくあまり真剣ではない調子である。
 玄関の真正面はすぐ壁で、縦横それぞれ六十センチほどの絵が一つ、そこに飾られていた。抽象画らしく往葵には描かれた内容がよく理解できないが、光の反射で少なくとも本物の油彩である事は判る。後から入ってきた百々がその絵の真正面へ進み出たので何だろうと思っていると、彼女はそれをじっと見つめた後、カクリと首を傾げた。
 少し気になったが、円香が「さぁプレゼントだよぉ」と言いながら手を引くのでとりあえず先へ進む。奥に行くと絵の掛かっていた左側の壁が切れて、何かの空間を大きな黒いカーテンが覆っていた。右側にはいくつかドアがある。
「では皆様、まずは旦那様からささやかな贈り物がございます」先頭の克山がそう声を上げて金色のカギを取り出し、ドアの一つを開けた。
 そこは、輝く金銀のモールで飾った華やかな部屋だった。しかしどことなく上品に仕上がっているのはさすがである。中央ではわざと無秩序に作られた段差に真紅の布地が敷かれ、ラッピングされた箱や光沢のある紙袋などが載っていた。
「わぁーい!」
 円香が真っ先に駆け寄った。その行動はさすがに、ちょっと子供っぽ過ぎやしないか?
 
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