5

 一九九七年一月。
 木村巡査部長――後の木村警部――は、パトロールを終えて署へ戻ってきた。相棒とはロッカー前で別れ、一服着けようと二階に上る。
 畳が敷かれた道場の横を抜け小さな会議室へ入ると、先客が居た。机に肘をついて、うなだれたような紺の背中。最初は誰だか判らなかったが、近付いてみると同期の高堰ではないか。何か落ち込む出来事でもあったのだろうか。
「おう、どうスた?」
「ああ……木村か」彼は疲れた顔を上げた。
「お前ぇあの事故の現場だったべ? どうだった?」
 高堰は高校で一緒のクラスになって以来、就職先も転勤先も偶然ずっと同じという腐れ縁だった。外での仕事中は気をつけているが、この二人の間では気兼ねせず方言丸出しである。
「いや、酷がったじゃ。運転席に男、助手席に女が乗ってあったったばって、ほとんど燃えでしまって、骨しか残らねんたよったもんだ」
 彼が見てきたのは、前日の早朝、H署管内の山中にて発生した車輌事故の現場である。曲がりくねった山道でハンドルを切り損ねたらしく、路傍の木へまともに激突したのだ。更に運の悪い事に、ガソリンが漏れたのか車は爆発炎上、現場は燦々たる状況だった。そこまでは木村も聞いている。
「そんたどご行ってきたら、気も滅入るべなぁ。まんつ今日は、飲みにでも行がねが?」
 元気づけるように背中を叩いたが、彼はパイプ椅子の上から動かない。
「違うったって……」
「ん?」
「別にそれで落ち込んでる訳でねぇ。――急に、捜査打ち切りだどや」
「は? なスてや? 身元は判ったったが?」
「ナンバーだげは読めだがらな。運転席の男は多分昔の芸能人の、苗場っていう人らしい」
「知らねなあ。でもなスて、打ち切りになるってや」
「こっちは下っ端だがらさっぱりわがらねばって……どっかがら圧力が掛がったみでった。上司はあっというまに現場片付けで……ろぐに証拠も調べねぇで……お終いときたもんだ。こんたごどってあるが? 俺は馬鹿臭ぇしてや」

    6

 一九九七年八月。
 七歳の往葵は、父の雅征を探していた。ほとんどの週末、我が家へ研究の相談に来る百々お姉さん――二十一歳――が今日も、客間で待っている。いつもは約束の時間通り現れるのに、何処にいるのだろう?
 広い木造建築の中を見て廻る。畳の部屋などはひんやりして気持ち良いが、誰もいない。足下をギシギシと言わせながら次々と障子を開ける。それでもまだ見つからない。
 砂利が敷かれた庭を横目に渡り廊下を走り、建物の奥で離れのようになっている書斎へ向かった。学者のくせにあまり部屋に籠もらない人だったが、もうあそこしかない。
 ドアの前に辿り着く。ノブを捻っても開かない。中からしか鍵は掛けられないので、やはりここに居るのか。
「お父さん、百々お姉さん来てるよ!」
 返事はない。
 机で居眠りでもしているのだろうか? そんなだらしのない姿など、見た事がないが……。
 木製のドアには、直径十五センチほどの円形をした窓がついている。往葵にはまだ届かないので、近くの裏口から踏み台を持ってきた。

 部屋の中央から放射状に、赤いものが飛び散っている。――血?
 そしてその中心に蹲った黒い物体。いや、薄暗い中で目が慣れてきた。机に突っ伏した人間だ。
 父だ。

「お父さん!」
 ドンドンと扉を叩く。しかし人影はピクリとも動かない。
 往葵はすぐ、裏口から飛び出した。庭の窓からはもう少し中が見易い筈。いや、そこが開いているかもしれない。
 靴下を土で汚しながら書斎の外側へ辿り着く。抱えてきた踏み台をまた使って、四角い窓へ手を掛けた。……サッシは動かない。
 ここからは、父の姿がよく見えた。背中が真赤に染まり、とても生きているようには見えない。二つしかない部屋の出入口が閉まっているという事は、自ら死を選んだのか?

 だが、観察していて、ある不可解な事実に気付いた。
 その瞬間、往葵の中で何かが停止した。

 母親は外出していた為、一人で待っていた百々に事を報せると、彼女は酷く動揺しながら廊下を走った。長いスカートに脚が絡まり、一度転ぶ。
「百々お姉さん、大丈夫?」
 往葵は冷静に声を掛けた。自分にとっても百々にとっても、父は大切な人物の筈。しかし何故、こんなに感情に違いがある?
「博士! 嫌ぁ!」
 ドアの前へ辿り着くと、丸い窓に縋って彼女は叫んだ。眼鏡の奥から涙が零れる。
 そうか、普通は泣くんだ。
「ねえ、庭の方の窓も閉まってたよ。でもどっちから見ても、ナイフみたいな物は見当たらないんだ。どうしてあんなに血が出たのかな?」
 淡々と疑問を口にすると、百々はまるで恐ろしいものを見るような目つきで、こちらを見た。

    7

 そして現在、二○○六年十二月二十五日夕刻。
 往葵は201号室の前に来ていた。
「円香さん? いますか?」
 ドアをノックして声を掛けると、まず父親が顔を出した。
「何があったんだい? 彼女、奥で相当にむくれているよ」
 東野氏は笑顔である。今回の事件の中で、いつの間にか彼とはずいぶん打ち解けてしまったものだ。
「いやあ、ちょっと喧嘩というか」往葵も苦笑いをする。
「じゃあ仲直りしてくれたまえ。僕は外にいるからさ」
「すみません」
 東野氏と入れ替わりで部屋の奥へ入っていくと、円香がベッドに座って後ろを向いていた。
「円香さん」
「……なぁに?」
「さっきはごめんね」
 何がごめんねなのか最早よくわからなくなっていたが、とりあえずそう言ってみた。
「ううん。あたしもごめんね」
 彼女はいつも通りの表情に戻ってこっちを向いた。これだけでいいらしい。どうも女性というのはよくわからない。
「ここ座ってよ」円香が隣をポンポンと叩き、突っ立ったままの往葵を促した。
「う、うん」
 沈黙。窓から外の林が見える。この館では窓の方角が全て同じなんだな、と関係ない事を考えた。それでもまだ、沈黙。
 円香が次に口を開く瞬間が心配になってきた。怒ってはいないようだが、またデートだの何だの言い出されたらどう応えていいか判らない。思い切って先手を取ろうか。
「円香さんのお母さんは、どうして亡くなったんでしたっけ?」
「――え?」
 往葵はもう少し、事件を解くための情報が欲しかった。しかしすぐに、あまりに唐突だったと悔やんだ。円香の表情が凍り付いたからだ。
「あ、すみません、ひどい事訊いちゃったね……」
「ううん、違うの」
 彼女は目を見開いたまま、ゆっくりと視線を床に下げてゆく。
「何が違うんです……?」
「これまで考えた事なかった――どうして死んだかなんて。パパに訊いた事もなかった。普通知ってはおきたいよね? 自分でも、信じられない」
「いや、普通かな? 人によると僕は思いますよ。知らないでいたいっていうのも、おかしくない。君は小さかったんだろうし」
「おかしいよ! 何年前なのかもわかんない!」円香は両手で頭を抱え、叫び始めた。
「え? それはちょっと、変だね……」往葵は困惑する。
「命日も知らない! そぉだよ! お墓参りも、一度もした事ない!」
「…………!」
 彼女はついに立ち上がってしまった。そして往葵も、戦慄した。確かにこれはおかしい。

「ああ、そうなんだ」

 後ろから声。驚いて振り向くと、東野氏がいつの間にか、部屋の中に戻っていた。壁に片手をついて寄り掛かっている。
「勝手にすまんね。叫び声がしたから……」彼は詫びてから話し出す。「円香は、清香がいなくなった日の記憶が抜け落ちてしまっているんだ。それより小さい頃の事は憶えてるのに、だよ? 僕は、そっとしておく事しかできなかった。ずっとその話題を避けてきた」
「パパ、そうだったの?」
「お墓参りは行った方がよかったかな……? ごめんよ」父親は悲しそうな顔で言う。
「それより、教えて! どういう事だったの?」
「いや、実は、あの時の状況も謎めいているんだ。円香が何を見たのかわからないけれど、もしかしたら、記憶が戻った時にひどいショックを受けるかもしれない。それが僕には、恐い」
 円香はぞっとしたように、自らの胸を抱いた。それを見て往葵は立ち上がり、庇うようにそっと触れる。
 すると彼女は、こちらを見た。恐怖の表情が晴れる。
「今は、往葵君がいるから大丈夫! 謎? それなら彼が全部解いてくれるよ!」
「そうか――!」
 円香の力強い言葉に、東野氏も頷いた。
(ちょ、ちょっと待ってよ)
 往葵の方はびっくりした。そこまで頼られてしまっては、あまりに荷が重くはないか。
「よし、説明しよう」
 東野氏はとっとと話を始めた。テーブルへつこうとする親子に流されるように、往葵は並んで座ってしまった。
「円香、落ち着いて聞いておくれよ? ……清香はちょうど十年前のクリスマスイブに、失踪したんだ」
「えっ!」
 円香ばかりでなく往葵も驚愕した。その時も、クリスマスだったのか。
「今年まで続けられてるスケジュールと同じく、イブの夕方には、本館でパーティーの準備が行われてた。梁木原さんはまだ勤めていなくて、その時は克山さんと清香の二人が料理を作る役目だった。そして円香、君はママに付いていっていた」
「全然……思い出せない」
「他に本館には、お義父さんが居ただけだった。今と全く同じように、地下の部屋にね」
「それで、最後に目撃された状況は?」往葵が促す。
「そこなんだが――克山さんの話だと、キッチンでずっと料理をしている筈が、途中で急にいなくなってしまったというんだ。そして円香は本館の中をウロウロしていたから、何かを知っているかもしれないと。それなのに、後で皆が集まった時にはやけにぼんやりしていて、僕がいくら訊いても、何も答えられなくなっていた」
「そんな事があったの? わかんないよぉ」円香は頭を横に振った。
「医者は、円香は何かとんでもないものを見て、記憶が消えてしまったんじゃないかと言った。僕にもそう思えた」
「いや、消えてしまう事はない筈。フタがされただけではないかと」往葵が口を挟む。「でも確かに、それを思い出すのが円香さんにとって良い事とは限りませんね……」
「ああ、そうなんだ」
「でも、ママはどうなっちゃったの? ちゃんと探したの?」
「勿論、警察には捜索願を出したよ。それで数日間は大騒ぎさ。でもその時は見つからなかった」
「行方不明? 生きてるかもしれないの?」円香が身を乗り出す。
「その時は、というと」往葵は眉間にシワを寄せた。
「残念ながら一ヶ月後、清香は亡骸となって見つかったよ」
「なんだ……。」円香はまたうなだれる。
「一体どこで?」
「それが不思議なんだが、元ウイークエンドの苗場さんと車でこっちへ向かっている途中、林に突っ込むひどい事故を起こしたらしいんだ。それまで何処に居たのかは、全くわからない」
「あの苗場氏と一緒に亡くなっていたんですか?」そんな重要な情報が、今頃出てくるとは。
「彼も十年前にはまだ付き合いがあって、クリスマスパーティーにも来ていた。清香が消えた時は、本気で捜索に加わってくれていたように見えたが……何か関係を持っていたんだろうか。僕はそれが情けなくて、円香にも、往葵君にも言えなかったんだ」東野氏はそこまで言うと目を瞑り、額に手をやった。
「たまたま帰ってきて、車で送ってもらってただけかもしんないでしょ?」円香が必死で言う。
「…………」
 返答はなかった。往葵も、たまたまではないだろうと思う。
「――警察はその事故については何と?」
「ひどく車が燃え上がっていて、ほとんど何も判らなかったそうだ。何かの検査で、確実に清香本人だと知れただけさ」

    8

 百々は考える。
 人は、子孫を残す。人に限らず全ての生物が、それぞれ子孫を残して未来へと自らの種を繋ぐ。
 それら全てが、自らと全く同じ、クローンの如き分身を残そうとするものだろうか。それともより良い進化を期待して、変化した子孫を求めるだろうか。現代科学では後者の説が優勢かもしれない。そもそもオスとメスが存在するのは、遺伝子にランダム性を持ち込むためではないのか?
 しかし、人間には文化がある。何を考えているのかが判る。――英語圏では、親の名前に「Jr」を付加しただけの名が存在する。これは、子に自分の完全な分身であってほしい、という願望の現れではないだろうか?
 日本ではそこまでの同一性は見られない。が、親の名から一文字取るというケースは非常に多い。
 希理優家の場合は? 秀一、秀十、百々、秀千。百々を除いてだが、『秀』の文字は同一性を願っている。ただ、数字は増大している。指数関数的に。こちらは、進化を求める願望だろうか……。人間は複雑だ。

 そろそろ日が暮れそうな頃、往葵が東野親子の部屋から戻ってきた。おもむろに百々は問う。
「楢崎さんの下の名前は、どうして大樹なのかしら?」
 
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