6

 突然、百々は気付いた。ついさっきの会話の中で、聞き流してしまっていたフレーズに。
『ここを建てた年のクリスマスから』
『この十年』
 まさか。
「私がどこまで理解しているのかを、貴方は知っていらっしゃると思いますが……」
 ゆっくりと話し出す。
「人の心は読めないさ」邦親氏はおどけたように笑った。「だが、ほぼ全てだろ? 壁の話だけでそれは伝わったよ。ただ、あるいはまだ――気付いていない事があるかもしれないね?」
 改めて、彼の顔を見据える。声が震えそうになる。

「貴方は、誰ですか?」

 髭の男は口元に笑みを残したまま、目は鋭くこちらを射た。そして無言のまま立ち上がり、部屋の後方へと歩いて行く。
 壁はすぐそこへ迫っていたので、百々は微動だにせず彼を見つめ続けた。一体何をしようというのだろう。
 スタンドに立ててあるベースギターが手に取られた。すぐ横に、アンプも椅子もある。簡単な調整の後、演奏が始まった。

 真っ先に、霧のような湿気が鼻先をくすぐった……気がした。どうしてそんな感覚に襲われたのか? 理由は、曲目が何なのかに気付いて解った。時任由芽子のファーストアルバム、二曲目だ。

 男の誘いをすっぽかした女。雨模様のせいだと独り言を言うが、本心は語られない。その絶妙な空気感。
 バックの演奏は、安易なジャンル分けに当てはまるようなものではない。歌詞の中の微妙な天気・微妙な心情をそのまま音に変えてしまったような、魔法の音楽。

 このベースのパートを、百々も弾いてみようとした事があった。楽譜は今でも頭に入っている。自分の腕は決して悪くないつもりだったが、どういうわけか同じニュアンスが出なかった。名手・瀧沢邦親の演奏にはとても近づけなかった。
 今、あの音が目の前にある。

「私は、瀧沢邦親だよ」
 手を止めると彼は言った。

    7

「思い、出した……」

 異次元から声が聞こえた気がして、部屋の全体が震えた。その主は、円香だった。
 そうだ、往葵が推理を披露し始めた時、彼女はちゃんと相槌を打っていたではないか。それなのに、途中からぱったりと発言がなくなっていた。口数の多いキャラクターにそぐわない。そして楢崎に捕まった瞬間も、悲鳴くらい上げそうな筈なのに――何故か無表情だったのだ。
「あたしのせいで……ママは……」
 円香は涙を流していた。
(フラッシュバック?)
 往葵の話す内容がキーとなって、記憶が戻りつつあるのか。
「パーティーの前にプレゼントルームを開けちゃって……それがバレたから克山がママを……あたしは隠れて見てた……」
(なるほど――)
 話が繋がった。東野清香は死亡した後、二ヶ月も隠されてから事故に見せ掛けられたのだ。それが判別できなくなる程、強烈に車が炎上するよう細工したのだろう。
 結局克山は、実の姉も実の兄も、殺害に関わった事になる。遺産だけの問題ではなく、恨みもあったのかもしれない。
(そういえば百々さんは今、二人の兄をどう思ってるんだろう)往葵はつい一瞬、関係のない連想をする。
「お嬢さんも可哀想だが、泣かれちゃ困るね」
 楢崎が眉を上げ、円香の顔を覗き込んだ。

    8

 結局、百々も判断を誤っていた。邦親氏は常識を超越していた。
「瀧沢さんのお子さんは結局、三人共亡くなりました。そして苗場さんのお子さんが生き残っている。こんな結果になっても構わなかったのですか?」
「ああ、そうだよ」彼は当り前の如く、頷いた。「克山にはあるがままを語り、楢崎には自分が苗場だと名乗った。そうしておけば僕は復讐される事もなく、安全だ。平穏しか、欲しいものはなかった」
「非道い……」
「そうかな?」百々の言葉に邦親氏はすぐ切り返す。「貴女はきっと、私と似ている」
 違う、と思いたかった。しかし、母・楚々の晩年を思い出す。自分は研究に没頭し、彼女をも蔑ろにしていなかったか?
「人間とは、元々孤独なものさ。愛情なんて錯覚だ。用もなく訪ねてくる者達が減るのは寧ろ歓迎だったね。自分の運命を追い求める事のみが、生きる目的なのだから」
 もう、何も言えなかった。その非情さにではない。その純粋さに、百々は打たれてしまう。彼の気持ちは理解できてしまう。正義を振りかざす事は、できない。
 それでも、彼のようになりたくはなかった。
 何故?
 眉間へ力を込め、声を搾り出す。

「私には、愛したい人がいます」

 百々はその言葉を最後にゆっくりと階段へ向かうと、一度も振り返らないまま、地下室を去った。
 自分はまだ、人間の世界へと帰る。

    9

 円香の呟きによって、102号室の緊張感に変化がもたらされていた。結果的に、それが幸運だった。

「破!」

 部屋の中心に、長い手足のシルエットが伸びる。
「!!」
 人質の顔を覗き込んでいた楢崎は反応できず、掌底をまともに顎に喰らって吹っ飛んだ。

 持ち主を失ったサバイバルナイフが光る。

 一撃を加えた人影の額も、光る。

 ガシャンと棚のガラスが鳴る。

 ふらつく円香を、阿由川が駆け寄って抱きとめる。

 スローモーションの時間が動き出し、皆はドアの外へ逃げようと体勢を変えかけたが、楢崎はもう気絶していた。
「フン……!」
 鼻息を洩らして背広を整えたのは――木村警部。
 平静を取り戻した者から順に、拍手が上がった。意外なヒーローへ向けて。
(結局僕は、役に立ったのか立ってないのかわかんないな)
 往葵は一人、溜息をついていた。

 部屋へ戻ると百々が待っていた。事の顛末を説明したが、彼女が真っ先に指摘した点は予想通り、
「あら、楢崎さんを遠くに座らせなかったの?」
 だった。

 そう、往葵は真相に追いついていなかったのだ。『隠し部屋から死体が発見された』という一報が入るまで、本当に克山が楢崎を殴って逃走したと思っていた。後から考えてみれば、百々があれほど示唆を与えてくれていたというのに……。
 克山の死亡を知り、一瞬のうちに後悔し、しかし一瞬のうちに推理を再構築した。そしていかにも予定通りの展開ですという顔をして、軌道修正しながら演説を続けた。幸い、その場ではバレなかったようだ。
 探偵役の言う事など元々殆どがこじつけなのだから、大差はない。ただ、円香には悪い事をしてしまった。往葵はひどく情けなくなり、後から大分落ち込む事となった。
 
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