第二章 1 六時過ぎになってやっと円香が着替えるというので、往葵は202号室を出た。廊下の窓から外を眺めると、既に大分暗い。そして樹々は、乳白色の空気に沈みかけていた。昼間天気が良かったとはいえ、随分とモヤが出ている。 そのまましばらく立っていると、奥隣の部屋のドアが開き、四十歳ほどの女性が出てきた。 「アラ、どなた?」 「こんばんは、お邪魔してます。円香さんに招待して戴いた杜能塚往葵です」 「ああ、貴方が。ええ、ようこそいらっしゃいました。瀧沢慶子でございます。あの子には義理の伯母に当たりますわね」 慶子夫人は、頭の天辺から爪先まで上品で塗り固めているという感じで、往葵にはそれが適度なのか過剰なのか判断できないくらいだった。ただ、高級そうな服やアクセサリーを身に付けても浮いていない事には、ちょっと感心する。(存在そのものは激しく浮いているが) 「ところで、夫の駿を見掛けませんでしたかしら?」 「いえ、まだ一度も」 「おかしいわね、何処へ行ってしまったのかしら。そろそろ着替えないといけませんのに」 声を聞いていて何かに似ていると思ったが、それはオペラだった。喋りに節がついているのだ。 「ちょっと失礼」 彼女はわざわざそう言って脇を通り抜け、201号室のドアをノックした。 「んあぁ、奥さんでしたか。どうしました」円香の父が顔を出した。高いヒールの靴をはいた慶子夫人より、少し背で負けている。 「夫がそちらに居りませんか?」 「いや、一度挨拶は交わしましたがね、ここにはいませんよ」 彼は右腕を室内へ振った。この動作も少々大袈裟だ。欧米仕込かもしれない。 「他に行く所なんて、無いのですけれどねぇ」 夫人がそう言った時、館の前のアスファルトが敷かれた部分にマイクロバスが現れた。 「おや? もう迎えが来たのかい」東野氏が低く轟くエンジン音を聞きつけ、窓際まで出てくる。 「早過ぎじゃないかしら」 慶子夫人もゆっくりと追ってきた。そのように歩く事しか想定されていないような服装である。 「何か予定変更だろうか」 「わたくし、下りてみますわ」 わざわざ宣言しなくてもとっとと下りたらいいじゃないか、と往葵は思い、横で笑いを噛み殺した。どうも芝居がかっているというか、不思議な人達だ。 結局三人揃って下階へ行くと、克山執事が大きめの紙袋を持って玄関に入って来たところだった。 「克山さん、どうかしたの?」まず東野氏が目を大きくして訊く。 「急なお客様がいらっしゃいまして、お召し物がないという事でしたので」 「へえ、誰です?」 「中之倉様の知り合いで、城戸様とおっしゃる女性の方です」 すると101号室と102号室の扉が開き、男性一人と女性二人が出てきた。カウンター前に七人の人間が集まる格好になる。 「あっ、城戸実菜子と申します。ご無理を言ってしまって大変申し訳ありません」 百々と一緒に出てきた細長いジーンズの女性が、克山に頭を下げた。 「いえ、サイズが合うかは分かりませんが……」 克山は丁寧な物腰で紙袋を差し出しながらも、鋭い視線で城戸を観察しているようだ。 「ええと? するとそちらが希理優百々さんですか」東野氏が発言した。 「はい。皆様、よろしくお願い致します」 彼女は主に、たった今階段から降りてきた初対面の二人へ向かって礼をした。東野氏は「ええ、よろしく」と言って笑顔になったが、慶子夫人は一瞥をくれただけだった。 「克山、夫は何処?」場の雰囲気を華麗に無視して、自らの用事を言い出す。 「いえ存じませんが、居られないのですか?」 「エ、エッ、僕も見ていませんね」太った男が甲高い声で口を挟んだ。往葵は消去法により、彼と中之倉という名前を結びつけておく。 「なあに? それじゃあ外にいるって事?」 瀧沢慶子は眉間にシワを寄せて、ガラス張りの玄関を見た。 「来る途中ではお見かけしませんでしたが、お散歩でしょうか……」克山も困った顔になる。「104号室か204号室に居られるという事はありませんか?」 「何故そんな所に隠れなければならないの? 失礼な事を言わないでちょうだい」 夫人は執事を睨みつけた。往葵は(それはそんなに怒る所か?)と心の中で突っ込む。 「いえ、大変失礼致しました」彼は深々と頭を下げた。 瀧沢慶子が突然、つかつかとカウンターの内側に回る。すると克山はサッと抽斗のものらしいカギを差し出した。それがあまりに素早く、往葵は笑いを堪え切れなくなって階段の方を向く。 「ホラ、どちらもあるわよ?」 104号室と204号室のカギはそこに残っていたようだ。 「わたくし確認して参りますので」 克山はその二つを受け取り、一階の奥へ早足で向かう。一同はそのままそれを眺めていたが、百々がおっとりした声で沈黙を破った。 「城戸さん、往葵君、とりあえず着替えたら?」 2 百々はカウンター前に残り、同じくそこに留まった中之倉に皆のフルネームなどを教えてもらう。そして城戸が102号室へ、往葵が103号室へ入り、東野氏はまた二階へ上がり、慶子夫人が玄関先まで歩いていくのをその中心地点から眺めていた。克山は程なくして、二階の様子も見終わって戻ってくる。 「やはり、この建物には居られませんね。円香お嬢様にもお訊きしましたが、ご存知ないそうです」 「本当にどうしたのかしら……パーティーに遅れるような真似は絶対にしないはずなのに」玄関からまた、慶子夫人が近付いてきた。 「旦那様の所へ降りる時刻は絶対ですので、万が一現れなかった場合も出発しないわけには参りません……申し訳ありませんが」克山も更に困った表情になって頭を下げた。 「それは貴方の責任ではないので仕方ありませんが、やはりこの時期には、もう一人執事を雇って別館に置くくらいの事をしなければ駄目ね」 「検討させて戴きます」彼は上半身を折ったまま軽く頷く。 百々は密かに、この遣り取りに驚いていた。さっきの様子からするとまた夫人が怒り出すかと思ったのだが、瀧沢駿氏抜きでも出発するという提案をあっさり了承したのは何故だろうか。それほど瀧沢邦親氏に絶対的な影響力があるのか。 外を眺めると先刻から出ていたモヤが更に濃くなっていて、ここからは門の辺りまでしか視界がない。もはや霧と言っていいだろう。そして今気付いたが、克山が乗ってきたマイクロバスの他に軽ワゴンも停まっていた。訊くと中之倉の機材車であった。 それにしても、城戸の本館へ入れて欲しいという申し出を克山があっさり許可したのもまた、相当に意外である。名目はただのアシスタントなのに、ドレスを貸して地下の邦親氏にまで会わせて貰えるという。この場所には、もっと閉鎖的な雰囲気を感じていたのだが……。 そんな事を考えていると、濃い緑色のジープが入ってくるのが見えた。 「おや、あれはきっと楢崎様ですね」 克山はそう言うとサッと玄関へ走り、外まで出ていった。車からは男性一人が降り立って後ろのトランクを開けている。 「時任さハァんも間に合わなかっクク! たりしてぇ」中之倉がまた無意味に笑いながら言った。 「もう着かないといけないのでしょう?」百々はそもそも彼女に一番会いたかったので応答する。 「ええ、まあ去年もギリギリに来ましてぇ、それでもちゃんと間に合った事はタシカですね」 さっきから気になっていたが、彼はどうやら『タシカですね』が口癖のようだ。風貌は数学者に似たタイプだが、そちら方面の知り合いに、この表現を軽々しく使う者は居ないだろう。『証明』しなければタシカではないからである。 ジープの男は、アコギ用の大きなケースを提げて玄関へ入ってきた。克山は衣類らしい荷物を運んでいる。 「いやぁ奥さんお久しぶり。自分で運転して来たら、ちょっと遅くなっちまったよ」彼はガニ股で歩きながら慶子夫人に手を挙げた。「ん、そちらのお嬢さんは?」 「旦那様がご招待なさった、希理優百々様です」 後ろから克山が応えて初めて、百々は自分の事を言っているのだと気付いた。今まで生きてきて『お嬢さん』なんて表現された経験は無かったからだ。 「初めまして、希理優百々です」改めて自己紹介しながら一礼する。 「あーどうも」 楢崎大樹は時任ほど有名ではなく、極たまにテレビに出るクラスのシンガーソングライターだった。歳は三十代半ば。基本的にアコースティックギターを持って一人で立つが、バックの演奏はロック調である。黄色を基調に焦げ茶の線が混じった髪をしており、口髭も茶色に染まっていた。サングラスをかけているが、薄い色のレンズで目元の表情は判る。身長は平均的だろうが、脚も背中も丸めるようにして歩いていた。 「ここへ上ってくる途中、うちの夫が歩いていたというような事はないですわよね?」 慶子夫人が楢崎に訊いたが、端から期待していないようである。 「へ? ええ、誰も見なかったっすよ。いなくなったとか?」 「よくわからないのですけれど、気にしないで下さいまし」 「はあ」 「楢崎様は104号室になりますので」 カウンターへカギを一つ戻した克山は、荷物を一階の奥へと運んで行った。楢崎は「おう」と応えただけで、ハードケースを足元に置く。すぐマイクロバスへ積む事になるからだろう。 「えーと? 今年は他に誰が来てんだ?」 彼はやや横柄な調子で中之倉に訊いた。この館以外でも、普段から付き合いがあるのだろうか。 「ちょっと僕の手伝いとして、城戸さんという女の方が来てます」 「あん? ここのPAなんかいっつも一人で出来てるだろ? 女連れ込んだって事か」 「イヤァー滅相もない。実は友人の奥さんでして」 彼はブブブブと高速で手を振動させて否定しながら、城戸の素性を少々バラしてしまった。 「そりゃあ余計怪しいぜ?」楢崎はポケットに手を突っ込んでニヤニヤしている。 「後はもう一人男の子がいましたよね?」中之倉は慌てて誤魔化すように百々の方を向いた。 「ええ、杜能塚往葵君です。一応私の連れで……」 そう応えると彼は一瞬顔を突き出し、急にあらぬ方へ首を傾げた。慶子夫人もちょっと不思議な表情になっている。しまった、往葵は東野円香の招待で通っていただろうに、無意識に対抗して『連れ』と表現してしまったのだ。 「へぇ〜」楢崎の方は興味なさ気に外へ目を遣る。「今年は少ねぇな」 「何年か前までなら、いつも十五人はいたものですけれどね……」 慶子夫人も嘆息気味に応えた。 |