第五章 1 十年前――一九九六年十二月二十四日、夕刻。 六歳の円香は、『籠瀧館』本館を走り回っていた。 キッチンでは母・清香がパーティーの食事を準備しているところだが、元気が有り余る年頃の彼女である。黙って待ってはいられなかった。 ホールのステージによじ乗る。 また飛び降りる。 テーブルの下に潜り込んでみる。 黒いカーテンをバサバサと掻き分ける。 直線になった廊下を駆け抜ける。 (そぉだ、今年のプレゼントはもう準備したかなぁ) 去年のクリスマスイブにもらったプレゼントを、円香は思い出した。またあれぐらい嬉しい物が貰えるだろうか。今回も同じ部屋で受け取る事になっている、と聞かされていた。 (もうすぐ夜だから、とっくに準備してある筈だよね) Uターンして、全速力でプレゼントルームの前へ向かう。その辺りはシンとしていた。克山もキッチンだろう。 背伸びしてノブを捻ってみるが、やはり鍵が掛かっている。ここまで来てみると俄然気になってきた。 (うー、待てない! 早く見たい!) キョロキョロと辺りを見回して確認してから、円香は後ろへ下がった。カーテンに背中がつく。 「えーい!」 思いきりダッシュし、跳び蹴り! 身体は小さいが勢いがあった。ガターンと音が響き、鍵が壊れてドアが開いた。 「……あれぇ?」 プレゼントルームの中は空っぽだった。 2 同日。 執事の克山は、東野清香と共にキッチンで仕事をしていた。しかし、気付くと彼女がいない。料理の準備は途中である。どうしたのだろう? 不思議に思っていると、幼い娘の円香だけが戻ってきて、隅の椅子にちょこんと座った。 「円香様? お母様はどうされました」 「ママ? うーんと」彼女はモジモジと身体を動かして視線を泳がせる。「知らない」 「そう……ですか?」 怪しい、と思いながら訊き返すと、円香はセーターの襟の中へ隠れるように首を竦め、上目遣いで頷いた。 子供の扱いなどというものは克山にとって決して得意ではないが、これはどうも、何かを隠してとぼけているのではないか。彼は部屋を出て、東野夫人の姿を探してみた。 裏口方面にはいない。ホールを通り抜けて、正面玄関側へ。 黒いカーテンを開くとまず真っ先に、プレゼントルームの内部が見えているのに気付いて驚いた。あってはならない事だ。 そして慌てて駆け寄ると、探していた人物もそこにいた。 克山が生きた東野清香の姿を見たのは、その日が最後だった。 3 一九六九年、ビートルズによる通称『ホワイト・アルバム』が日本でも発売されて、しばらく経った頃。 三十歳の瀧沢邦親は『ウイークエンド』を立ち上げ、ファーストアルバムを発表。売り上げはまだまだだが、業界内で高い評価を受け始めている。自分自身でも手応えがあった。早速次のアルバムへ向け、メンバーでスタジオに入っているところである。 ただし今のところは、曲のデモテープを持ちよってあれこれ相談をしている段階で、まだまだ気楽なムードだった。 「それはそうと、今回のビートルズの白いLPも凄いよね。早速どっかパクって曲に入れてみない?」 セッションの合間、神子柴が女性的な高い声で提案した。ウイークエンドの作品ではこれまでも、洋楽の引用を忍ばせた趣向を凝らしている。(パクるとは言っているが、GSのような『まんま使用』とは違いさりげなくアレンジに混ぜ、マニアがニヤリとするというものである) 「アレはあんまイイと思わないな。なんかてんでバラバラで」 薮はニューアルバムに否定的だったが、それはそれまでのビートルズ作品をあまりにも好きであることの裏返しであろう。 「僕は、そのバラエティの豊富さがいいんじゃないかと思うけどね」この点で、瀧沢は彼と正反対の意見だった。 「やっぱ最高傑作はサージェントだって!」 「いいや、新しい物ほど良くなってるね」 ちょっとした言い合いになるが、それがまた楽しいのだ。ウイークエンドは四人全員が、とにかくビートルズの大ファンである。 「『ミュージック・ライフ』読んでたらさ、『ドント・パス・ミー・バイ』はリンゴがピアノ弾いてるらしいよ」 議論を横目に、いつもマイペースの苗場が発言した。 「ウッソ? ポールじゃなくて?」神子柴が反応し、更に甲高い声になる。 「そんなイキナリ弾けるかあ?」薮も首を傾げた。 「でも確かに、あの曲のピアノはちょっと上手くない感じがあるからね。少なくともマーティンではないだろう」 瀧沢には、その説に少し信憑性があるように思えた。 「ここにはそう書いてあんだよー」と苗場が猫背をさらに屈め、雑誌を差し出す。 「日本にはあんまり情報入って来ねぇしなぁ。全部正確とは限んねぇから困る」薮は、胡散臭そうにそれを眺めた。 「次のアルバムで、一曲苗場が歌うってのはどう? リンゴみたいにさ」神子柴が面白そうに言う。 「いくら憧れてても、それは無理だって」 苗場は苦笑しながら応える。しかし、腕組みをしてこう続けた。 「でも、ピアノは始めてみよっかな……」 4 一九七六年二月。 希理優秀一(ひでかず)は、四十歳にして三人目の子を得た。ただし、上の二人の息子と、今度の娘の母親は違う。 彼は病室に入ると、ベッドの三船楚々(そそ)に一瞥をくれた。 「ごくろう」 彼女は秀一の秘書を長年務めてきた女性である。まるで出産もその仕事の一部であるかの如く、いつも通り淡々とした言葉を、彼はかけた。 「いかがでしょうか?」 楚々の言葉もまた、仕事の出来を訊ねるのと全く同じ調子だった。 秀一は赤ん坊を見る。その時ちょうど、閉じていた小さな瞼が開いた。その瞳は。 「――決めたよ。この子に、『百』の文字を与える」 「そんな……!」楚々は横になったまま、両手を口元に当てる。「いえ、光栄ですが、何故彼行(かなめ)さんでは駄目だったのですか?」 「彼行は大成しない。この子は大成する。私には見れば判る。それだけだ」 秀一は事も無げに言い切った。そして少しの間思案し、こう続けた。 「娘ならば、名前はお前のように百を重ねて、百々がいいだろう」 「百々」母親は横で寝ている子を見、初めてその名で呼びかける。 「この子には希理優の名も持たせなければいけない。お前と籍を入れる」 「そんな…………!」楚々は同じ言葉で、さっき以上に驚いた。「いえ、光栄ですが、私は身分が」 「本家の連中が騒ごうと、何としてもそうする。お前には迷惑がかかるだろうが、我慢してくれ」 「――はい」 彼女の中では今、喜びと不安の両方が激しく渦巻いている筈だった。しかしそれを全く表に出さず、ただ従順に頷く。さすが我が秘書だ、と秀一は思った。 「何ですって!」 屋敷へ帰ると案の定、坂崎美代が金切り声を上げた。 「何故千代の子供でなく、秘書風情の子に跡継ぎの権利を?」 秀一の最初の妻、千代は二人の子を産み、三年前にこの世を去った。その妹美代は現在、希理優家・本家の世話を務める女性達の中で筆頭の地位にいた。 千代の最初の息子「秀十」は『十』の字を授かったが、二番目の息子に『百』の字は与えられず、名前は「彼行」となった。その数字は、希理優家における正式な跡取りの印となる。 「三船と籍を入れるから、そのつもりでいるように」 「な、まさか、この家に入れるおつもりで?」彼女は血走った目を見開いた。 「それはお前が許すまいな……」 秀一は自らの腰に手を添え、美代を横目に見て呟く。 「言語道断です! 千代がそれを知ったらどれだけ悲しむことか」 「誤解するな! あいつが生きているうちに三船に手を出した事はない」 怒鳴り返し、遂に双方が大声になった。 「同じ事です! 死んでしまったら、もうあの子との関係は終わりなのですか?」 「では何だ? いつまでも喪に服し、引きずり続けていればよいとでもいうのか。懸命に生きて何が悪い!」 以降、楚々と百々は本家から徹底的に疎まれ、また恨まれる存在となった。秀一の才覚によって発展した筈の希理優家は、いつの間にかその当主でさえ、一手にはコントロールしきれなくなっていたのだ。今やただの家政婦長ではなく、ビジネス面にまで実権を持っていた美代を黙らせる事も不可能だった。 秀一は個人として可能な限りの財産を切り離し、新しい妻と娘が生活に困らないよう計らった。しかし、共に暮らすなどという事はとても無理な相談だった。 |